都合のいい「一周の夢」
さらに、ドッペルゲンガーの特徴としては、
「一言も喋らない」
ということであったり、
「ドアの開け閉めができる」
という具体的な話まで伝わっている。
しかし、ドッペルゲンガーの何が怖いのかというと、
「ドッペルゲンガーというものを見た人は、近い将来において、必ず死ぬ」
というような
「都市伝説」
が、いかにも真実だとして伝わっていることだった。
ドッペルゲンガーというのは、実際には古代からその存在が認知されていると言われている。
そして、実際に、
「ドッペルゲンガーを見たことで死んだ」
という人が、過去の偉人の中にたくさんいることから、その信憑性が、かなり高いものだということで、認識されるようになったのであろう。
「芥川龍之介」
であったり、
「エイブラハムリンカーン」
などという著名人の逸話が残っていたりするからだ。
そんな状況において、ドッペルゲンガーと、二重人格、特に、
「ジキルとハイド:
の話のように、
「極端な性格の違い」
特に、
「正反対の性格」
というのを考えた時、
「ドッペルゲンガーの発想にはいきつくのだろうが、ジキルとハイドの話とは、根本的に違っている」
といえるのではないだろうか。
「ジキル博士とハイド氏」
というのは、
「自分の中にある性格を引っ張り出して、今の自分の性格を変えようと考えたのか」
それとも、
「自分の中にある性格を覚醒させて、もう一人の、いい部分がある自分を表に出したかったのか?」
ということのどちらかなのだろうが、後者であれば、
「結果が悪かった」
ということで、言い方はきついが、
「ジキル博士の、自業自得」
ということになるだろう。
そもそも、
「薬を使って、人間を覚醒させよう」
という考え方は、どこまでが許されるというのか?
と考えてしまう。
確かに、人間が病気になった時、薬を使って、病気を治したり、楽になるように、薬を使うというのは、当然のことのように考える。
ただ、考え方として、
「人間を含めた動物には、自分で自分を治すという、治癒能力というものがあり、治すことができなければ、あとは死ぬしかない」
という考え方もある。
それを寿命という
という考え方をするのであれば、
「本来であれば、病気で死ぬはずの人を、人間が開発した薬でしなないようにした」
ということは、その人の運命を、
「人間が狂わせた」
というのは、大げさであろうか。
本来であれば、死ぬ予定の人間が助かるということは、本来であれば、その時に生まれてくる運命出会った人が生まれてこなくなるとも案が得られないだろうか?
これは、少数派意見といってもいいが、
「人間の輪廻転生というものの考え方」
として、
「死んだ人間の魂が、誰が他の生まれてくるはずの人間に宿る」
ということだと考えれば、人間の出生率であったり、生まれるタイミングというものが変わらずに、
「永遠に生き続ける」
と考えるとすれば、それはおかしなことではないだろう。
というのも、
「人間が死後の世界にいった場合。人間として生まれ変われる人は限られている」
ということであった。
ほとんどの宗教では、
「生まれ変わる」
ということと、
「地獄で永遠に苦しむ」
という考え方の違いがあるが、
「地獄で苦しむ人たち」
というものが、違う宗教においては、
「人間以外のものに生まれ変わる」
という発想になるのだ。
一度、人間以外に生まれ変わってしまうと、
「輪廻転生」
というものを、何度繰り返したとしても、人間に生まれ変われるということはありえない。
という考えに至るのであった。
それを考えると、ほとんどの宗教の考え方でいけば、
「人間というのは、どんどん減っていく」
ということになるだろう。
しかし、人間は、減るどころか、その人口はどんどん増えている。
しかも、
「寿命がどんどん長くなっている」
ということを考えると、
「輪廻転生」
というものを、再度考え直すという必要があるのではないか?
といえるのではないだろうか?
それを考えると、言われている。
「タイムスリップ」
であったり、
「タイムリープ」
さらには、
「ドッペルゲンガー」
というものを、研究することで、その答えがどこかにあるのかも知れない。
ということになるのではないだろうか?
人間の寿命であったり、運命というものは、
「本当に変えられるのだろうか?」
ということであり、変えられるとして、それを果たして、人間の手にゆだねてしまっていいのだろうか?
ということになるが、その考え方というのは、
「神の存在を肯定する」
ということを証明するかのようではないだろうか?
一度、未来に行って、過去に戻ってきた時、見てきた未来が、
「一度、未来というものを見たことで、過去を変えた」
と言えないだろうか?
もう一度、過去に戻るのだとすれば、少なくとも、未来にいたことで、本来であれば、現在にいるべき時間を、未来で使ったわけだから、
「自分の存在が、その未来にいた間、ぽっかりと穴となって開いたと考えるべきなのか?」
それとも、
「未来というのは、現在というものに、まったく影響を及ぼさない」
ということで、未来に行って戻ってきても、
「歴史を変えたことにならない」
と考えていいのだろうか?
そんなことを、どうしても考えてしまう。
ただ、どうしても、
「未来にいた時間、現在の時間、穴が開いたと思うのか、それとも、飛び出したその時間に、完璧に戻ってくることで、辻褄が合う」
と考えればいいのか?
このあたりの問題が大きな影響をはらんでいると思えるのだった。
未来にいる時間。自分では、
「たとえ一日とはいえ、時間を過ごしているのだ」
と感じると、過去の飛び出したのと同じ時間に戻ってくることに対して、何かの違和感があると感じることだろう。
だったら、
「一日先に戻ってくるというのは、ありなのか?」
と考える。
そもそも、タイムスリップで未来に行った時。それが、ごく近い未来であり、例えば、5分後だったとすると、タイムマシンで飛び出した時、目の前からその人は、忽然と消えることになるだろう。
そして、5分経つと、判で押したように、その時間になると、
「忽然と、何もない空間に、いきなり飛び出してくる」
ということになる。
見ている方は、確かに、
「5分という時間を飛び越えて、その場所に戻ってきた」
と思うだろう。
しかし、タイムトラベルをした人にとって、その5分は一瞬でしかない」
理論としてはのことであるが、5分を飛び越えて戻ってきた人の時計は、数秒しか過ぎていないということになるのだ。
ということは、その人だけが、
「その5分というものを経験していない」
ということになり、それこそ、
「アインシュタインの相対性理論」
というものの証明をした。
ということになるのであろう。
だったら、タイムトラベルで未来に行った人が、過去に戻るとすれば、戻った瞬間、
「時間の経過がない」
というだけで、意識の辻褄は合っているということになる。
作品名:都合のいい「一周の夢」 作家名:森本晃次