都合のいい「一周の夢」
「確かに自分は、その車に轢かれることはないだろう。ただ、自分の代わりに轢かれる人はいたかも知れない。それどころか、違う道を通ったおかげで、別の災難に巻き込まれるかも知れない」
とも言えなくもない。
逆に、難を逃れたとすればどうなるだろう。
「ああ、よかったよかった」
ということで、済まされるだろうか?
というよりも、ここで交通事故に遭わなかったことで、その瞬間から、自分の運命というものは、劇的に変わることになる。
ということは、
「最初から分かっているはずの、自分の歴史」
というものが、ここで終わってしまうということになるだろう。
ということは、
「せっかくタイムリープしてきたとしても、ここから先は知らない人生だ」
ということで、もう過去の記憶は、まったく通用しないよいうことになるのではないだろうか?
だから、
「過去にタイムリープしたとしても、その効果は、一度だけしか通用しない」
ということになるのだ。
「過去のあの時点からやり直したい」
という意識であれば、いいのだが、
「未来からきたのだから、その時々の危険から、すべて逃れられる」
という考えを起こすと、それはまったく違うということになるのだ。
これが、小説などの、
「物語のネタ」
ということになれば、どう考えればいいというのか、
「実際に生きてきた人生と、タイムリープによって引き起こされた人生というものは、まったく違った人生を歩めるかどうか、それは分からない」
といえるだろう。
ただ、タイムスリップのように、
「過去や未来に行った自分が、アイテムを使って元いた時代に戻る」
という発想は、
「タイムリープ」
にはないのだ。
「自分のいた時代の自分に憑依する」
ということで、
「タイムパラドックスの解決にもなるし、やり直したいと考えたことを実行できる」
ということで、実に都合のいいことのように思えるのだが、果たしてそうなのだろうか?
「人生をやり直すといっても、そこから先の未来が分かっていることで、すべての危険を回避できるわけではなく、それができるのは、最初だけだ」
ということと、同じ発想ではあるが、
「タイムパラドックスの解消ということであるとしても、一度危機を回避してしまったことで、歴史を変えてしまうということになるわけなので、この時点で、タイムパラドックスを自らで起こさせたということになり、その意識が、タイムリープであるということから欠如しているだけだとすれば、その罪はさらに思いといえるのではないだろうか?」
「タイムリープというものが、どんなにいいものなのか?」
と考えている人がいるとすれば、
「冷静に考えれば、これくらいの発想は出てくるのではないだろうか?」
と感じるのだ。
というのは、
「タイムリープ」
という考えは、
「タイムスリップの派生型」
であり、
「タイムパラドックスの解消」
という考え方なのだから、
「タイムリープを創造するということは、タイムパラドックスとは、切っても切り離せない関係ということになり、タイムスリップのような考え方は、容易にできるのではないだろうか?」
といえるだろう。
それを考えると、
「タイムパラドックスというものをいかに考えるか?」
ということを考えると、
「ドラマや小説で使う分には、害はない」
ということであろうか。
タイムスリップものの、小説やマンガというのも、結構昔からあり、似たようなものでも、それぞれに気を遣って描かれていて、なるべく、
「二番煎じ」
にならないように描かれている。
「二番煎じ」
であったり、
「盗作まがい」
のものであったりすれば、その小説やドラマは、
「面白くない」
というレッテルを貼られることだろう。
「どこかで見たことがあるような話」
と少しでも思われると、興味をそがれるといってもいいのではないだろうか。
ミステリーのトリックなどは、
「大体のトリックは出尽くしていて、あとは、バリエーションの問題だ」
ということになるのは必至だ。
といってもいいだろう。
だから、SF小説というものも、テーマやドラマの根幹になりそうなことは、
「ある程度出尽くしている」
といってもいいかも知れない。
しかし、すべてが出尽くしているというわけではなく、
「新しい発想はまだまだある」
といって、新しいものを、創造しようとする人もいれば、
「これからはバリエーション」
ということで、似たような話になってもいいから、バリエーションを利かせることで、量産体制に入る人もいるだろう。
「もし、俺が、小説家だったら、量産体制に入るだろうな」
と朝倉青年は感じた。
しかし、読者としては、
「あくまでも、新しいネタを求める」
と思うに違いない。
下手をすれば、
「バリエーションは、二番煎じだ」
と考えるかも知れないと思うと、そう思った自分を否定したくなるというのも、自分の性格であった。
その時、
「俺って、二重人格なんだろうか?」
と感じたりしたが、もっと別の考えが浮かんできた。
「未来のどこかの自分が、タイムリープして、乗り移っているのかも知れない」
と思うのだった。
確かに、
「タイムリープ」
というものを思い浮かべた時、
「元からいた俺の魂はどこに行ってしまったのだろうか?」
と、タイムリープを考えた時に、感じたことだった。
というのも、
「タイムリープ」
というのは、
「過去の自分に憑依する」
ということなので、その中の自分に憑依するということは、元からいた自分の中の魂のことを、どうして考えなかったのか?
と感じるのであった。
過去の自分がはじき出されるのであれば、過去に戻ったとしても、気分のいいものではない。
だから、意識して、考えないようにしていたということであろうか?
まるで夢を見ているような感覚ではないだろうか?
そんなことを考えると、
タイムリープをすることで、時間がさかのぼって、もう一人の自分が消えてしまうということではなく、未来を知っていると思っている自分が、同じ肉体にいることで、
「もう一人の自分」
を作ってしまう。
とも考えられないだろうか。
しかも、未来を知っていることで、
「自分の危機を一度だけ救える」
という自分が現れたのだ。
その自分が
「隠れた自分」
そう、まるで、
「ジキルとハイド」
のような、薬を使わないと表に出てくることのできない、もう一人の自分。
そう考えると、
「ジキルとハイド」
という話は、
「二重人格の話」
というよりも、
「ドッペルゲンガーの話」
と言った方が、適格なのかも知れない。
「ドッペルゲンガー」
というのは、
「世界に3人はいるという、よく似た人間」
ということではなく、明らかな。
「もう一人の自分だ」
ということである。
もう一人の自分ということなので、基本的には、同一次元、同一時間に存在してはいけないということになる。
しかし、実際には存在していて、しかも、その存在は、
「そもそも周知されている人の行動範囲以外には、現れない」
ということであった。
作品名:都合のいい「一周の夢」 作家名:森本晃次