都合のいい「一周の夢」
ということを感じていたいと思うことが、一番理屈に合っていると感じたいのかも知れない。
タイムリープ
「タイムトラベル」
というものを考えた時、
「タイムスリップ」
と、
「タイムリープ」
という二つが考えられるということを知ったのは、最近のことだった。
「タイムスリップ」
というのは、結構昔から、小説やSFドラマなどでよく使われるものである。
というのも、
「タイムマシン」
あるいは、
「ワームホール」
などと言った、
「各種アイテム」
があるからである。
「タイムマシン」
というのが、人間の手によって、あるいは、人間以外の生物によって、タイムトラベルを目的として製造されたものであり、
「ワームホール」
というのは、伝説上のもので、そこには、人間の手は介入しておらず、言われることとして、
「月や天体」
の影響により、不定期に現れる、一種の、
「タイムトンネル」
ということである。
どちらにしても、その用途は、
「時を超える」
というもので、時代を超越するものということで、存在しているものである。
そのどちらも、人間を巻き込んで、
「他の時代に誘う」
という、
「タイムトラベル」
というものである。
そこに、本人の意思が入るかどうかで、変わってくるといってもいいだろう。
ただ、そのどちらも、
「過去に行く」
ということを危険視している。
だから、
「なるべく過去に行きたくない」
と思っているのだが、小説やSF映画というのは、
「そうは問屋が卸さない」
何かの事件が起こらなければ、タイムマシンにしても、ワームホールにしても、その存在価値というものは、ないに等しいといってもいいだろう。
そんなことを考えていると、
「未来への思いを馳せるのはいいが、その過程がどうなっているのか?」
ということが、一番の問題のはずなのに、
「結果だけ」
を見に行ったとして、それが自分のどんな教訓になるのか?
ということである。
「過程をすべて見ようものなら、何もタイムマシンは必要ないわけだが、その過程を見ずに結果だけを見て、じゃあ、どうすればいいのか? ということが分からないのであれば、未来を見るということは、危険でしかない」
ということになる、
そういう意味でも、タイムトラベルというのは、
「過去も未来も、危険しかない」
といえるのではないだろうか?
実際に、
「未来が安全だ」
ということで、未来に行ったとして、未来の自分を見た後で、過去に帰ってきたとすると、過去はまったく以前と同じだといってもいいのだろうか?
一つ気になるのだが、
「未来に行っていた時間を気にしなくてもいいのだろうか?」
ということである。
というのは、例えば、
「未来にいた期間を、まる一日いたとしようか? 飛び出した過去を、4月1日の午前0時だとすると、戻る時間は、4月1日の午前0時でいいのだろうか?」
ということである。
「4月2日の午前0時では?」
と考えるのだ。
というのは、どういうことなのか?
というと、
「未来にいた日にちの1日間というのは、ある意味、自分の寿命を一日費やしたことになるのではないか?」
ということである。
つまりは、本来であれば、1日先を生きていなければいけないのではないかということで、本来なら、
「1日遅く死ぬはずの寿命が、1日短く死ぬことになる」
といってもいい。
ということは、
「未来にいけば、過去を変えたことにはならない」
というが、少なくとも、自分は、その1日がなかったことになる。
その1日の間に何かがあれば、
「過去を変えた」
ということにならないのだろうか?
ただ、これは考え方の問題で、
「確かに過去を変えたかも知れないが、現代に生きていた自分たちは、知らないことだ。あくまでも、4月1日の午前0時以降というのは、その時点を現代だと思っている人には、未来でしかない」
ということになるのである。
つまりは、
「未来というものをいかに変えたとしても、それは、誰にも分かっていることではない」
ということだ。
それは、本人にしてもそうだ。
だから、ひょっとすると。
「過去の戻ってから、前にいった未来のその時にいった時、その未来はまったく変わってしまっているかも知れない」
ということになるのだ。
だから、
「過去は変えられないが。未来は変えられる」
という言葉になるのだろう。
もっとも、この言葉の意味は、別にこのような、
「タイムトラベル」
を意識してではなく。
「今までひどい人生だったかも知れないが、未来は努力によって変えられる」
ということを口にして、相手を慰めるという。
「一種の、気休めに過ぎない」
ということになるのだろう。
しかし、この言葉は、
「タイムトラベル」
という意味でもいえる言葉であるという発想から、
「気休めも、事実になるのだ」
といえるのではないだろうか。
「タイムトラベルというものが、過去も未来も変えてしまうことができる」
ということであれば、
「過去に帰ることで、タイムパラドックスさえ引き起こさなければ、やり直すことができるのではないか?」
と考えると、一つの発想が生まれてくるのであった。
それが、
「タイムリープ」
というものである。
この発想は、よくいう言葉として、
「昔に戻ってやり直すことができればいいな」
ということから派生している。
というのも、
「その時代に、今のまま、アイテムを使って飛び出すわけではなく、意識と記憶だけをもって、魂が、その時の自分に、憑依する」
という発想である。
だから、同じ時代の同じ時間に、同じ人間が存在するという、
「タイムパラドックス」
であったり、
「もう一人の自分」
というドッペルゲンガーでもないということになるのだ。
しかも、自分の中の記憶に入り込み意識も乗り移った自分が支配するということになるので、
「時代と身体は、その時代の自分だが、意識と記憶は、未来の自分」
ということになる。
「未来に起こることを知っているので、その時々のターニングポイントを乗り越えることができる」
と考えるであろう。
しかし、
「そううまくいくだろうか?」
というのは、
「過去に戻って、自分に憑依した時点で、タイムパラドックスなのではないか?」
ということである。
というのは、例えば自分が戻った過去において、記憶にしたがって生きている時、最初のターニングポイントに差し掛かったとしよう。
すると、その時の危機を乗り越えたとしてだが、それが、たとえば、
「交通事故に遭う」
ということであれば、どうだろう?
自分の記憶の中で、
「その道を通ってしまうと、飲酒運転の車に引っ掛けられる」
ということが分かっているのだから、別の道を通ろうとするのは、当たり前のことである。
するとどうなるかというと、
作品名:都合のいい「一周の夢」 作家名:森本晃次