都合のいい「一周の夢」
しかも、
「可能性」
という考え方からいえば、
瞬間瞬間で、
「ネズミ算」
のように無限から無限に広がっていく。
という発想になるのだ。
だが、最初の瞬間の、
「無限」
というものと、さらに次の瞬間の無限というものでは、どのように、違っているのだろうか?
ということを考えれば、
瞬間と瞬間の間に、広がる可能性が、いったん分かれてしまったその中で、
「今度は、もう一度結びついてくるものもある」
ということになる。
つまり、可能性というものが、さらに広がりを見せる時、どこかに限界というものがあり、そこから、一度離れたものが、もう一度結びつくということになるのだろう。
「可能性というものと、限界というものは、切っても切り離せない関係にあるのではないか?」
と考える。
可能性という言葉の枕詞のように、結びついてくる発想は、
「無限の」
という言葉ではないかと思っていた。
可能性というものは、
「無限の可能性」
ということと同じではないかということである。
つまりは、
「可能性というものが有限であってはいけない」
と思ってはいけないくせに、勝手に想像していることは、いつの間にか、
「無限の」
という言葉を自分の中で結び付けているということである。
だから、それを自分で制御するために、どこかに、
「限界」
というものを創造することで、
「可能性」
というものを制御するという考え方である。
だから、
「矛盾」
という発想が生まれてくる。
それは、
「無理なことを押し通そうとするからであって。普通に考えた時、矛盾というものは起こらない」
というのが当たり前のように思っていたが、果たしてそうなのだろうか?
「矛盾」
というのは、必ずしも、
「無理を押し通すことで生まれるものだ」
というわけではないだろう。
逆に、当たり前のことを当たり前に考えてしまうと、どこかに無理なことが生じてくるという考えで、それこそ、
「マイナスにマイナスを掛けると、プラスになる」
という、
「矛盾というものを正常に考えようとすると、矛盾をかけ合わせればいい」
ということを考えたとすると、
「他に存在している矛盾というものを。自分の中で理屈に合う正しいものとして理解させようとすると、矛盾を創造するしかない」
ということで、ひねり出した感覚が、
「自分の中にある矛盾」
というものではないだろうか。
この、
「矛盾」
というのは、人それぞれに持っていて、その人それぞれで違うものだ。
それを、
「都合」
というのではないだろうか?
都合こそ、人それぞれにあるもので、その人にとっての、
「一番の正義だ」
といえるものだと考えられるのであった。
「矛盾と都合」
というものが、それぞれに、マイナスであると考えると、それをかけ合わせてみたくなるのは、自分だけではないと考える。
朝倉少年は、中学時代から、鍵っこと言われるようになったが、小学生の頃から、友達の中には、
「俺はずっと一人だ」
といっているやつがいて、朝倉少年は、それを見て、
「うらやましい」
と思っていた。
一度、その気持ちを友達に言った。
「いいよな、俺も一人でいたいよ」
というと、その友達が急に怒り出し、しばらく絶好状態になったのだ。
朝倉としては、
「なんで、そんなに怒るんだ?」
と、訳が分からないと思っていた。
友達の方も、
「なんて無神経なやつだ」
と思っていたことだろう。
だが、相手は、
「無神経だ」
と思いながらも、仲直りの機会を探っていたようだ。
朝倉少年の方としても、
「仲直りしたい」
とは思っていたが、どこか意地を張っているところがあり、
「簡単に仲直りというわけには」
ということで、タイミングを計っていたといってもいい。
本当は、傷つけられた方が気を遣うというのもおかしなものなのだが、この二人の関係は、昔からのもので、結局、ずっとこの関係性が構図のようになり、今まで続いてきたということになるのだろう。
だから、相手はそこまで気にすることはなかったが、
「二人の世界を誰も邪魔することはできない」
と強く思っていたのは、友達の方だったようだ。
そのことが次第に分かってくるようになった朝倉青年は、
「どうして、そんなに俺のことをいつも気にしてくれているんだい?」
と聞くと、
「何か、自分の鏡を見ているような気がするんだよ」
というではないか。
「そんなに俺たちって似てるのかな?」
というと、
「いやいや、似ているというわけではないさ。むしろ、違うところの方が目立つような気がするんだけど、考えてみれば、鏡って、左右対称になるじゃないか。あれと似たようなものなんじゃないかな?」
と、曖昧な言い方をしていた。
というのも、そもそもの、
「鏡というものの考え方」
というものが、少し面白いと思っていたからだ。
それを、友達が口にした。
「鏡って面白いよね?」
と言い出すのだが、
「どういうことなんだい?」
と聞いてはみたが、何を言い出すのかということが、なんとなくわかった気がしたのは、自分でも愉快であった。
「左右は確かに対称になるんだけど、上下って、どうして反転しないんだろうね?」
というではないか?
「ああ、なるほど」
と言って納得したが、この納得の意味を、友達が察知したのかどうか、ハッキリとは分からない。
「左右対称というのがおかしいというのは、誰もが考えることなんだと思うけど、よくよく考えてみると、おかしなのは、上下が反転しない方ではないか? と思うんだよな」
という。
「確かにそうかも知れない」
と、朝倉は、考えながら答えたので、ちょっと自分でも不可思議な気がしていたのだった。
「左右対称なのは、自分が正対しているからだということが分かっているんだけど、でも、上下がもし反転した場合。こちらを向いているからといって、反転すると、同じ反転としての意味がおかしいわけなので、本来の映っている姿は、あれで正しいと思うはずなんだよね。だから、間違いないということが、どこまで信憑性があるか? ということにかかわってくるような気がするんだ」
というのだった。
それは確かにそうだった。
「見えているものを、そのまま直観で感じるか」
あるいは、
「理屈で考えようとするか?」
ということの違いであって、
前者であれば、見えていることが正しいとして、理解しようとするから、素直に感じることができ。後者であれば、一つの理屈を、最後まで徹底させて考えようとするから見つかった答えがどこまで正しいのかということを最後まで理屈で押し通そうとするから、そこに無理が生じるというものではないだろうか?
と考えると、
「無理を押し通す」
ということは、
「無限と思っていることに、限界を作ることで、理屈に収めよう」
と考えることになるのではないかと思うのだった。
だから、人間にとって、
「無限」
というのは、実は一番恐ろしいものであって。本来であれば、
「限界」
というものがあり、それが証明されることで、
「人間としての安心感を得られる」
作品名:都合のいい「一周の夢」 作家名:森本晃次