都合のいい「一周の夢」
「ゲームを、一時間以上すると、頭が痛くンある」
という状態になるのだった。
同じ一時間も、日が経つにつれて、次第に長くなってくるのか、短くなってくるのか、自分でも分からないが、明らかに、時間の感覚が鈍ってくるのであった。
境界線という意味で、結構いろいrぽ考えたりすることがあった。
例えば、
「交通渋滞の始まりってどこからなんだろう?」
ということを考えてみたり、
「いきなり雨が降り出した時の、その始まりというものは、移動していくのって、どんな感じなのだろう?」
などと考えるようになった。
そうなると、それぞれの境目を気にするようになり、
「昼と夜の境目って、どこなんだろう?」
などと思うようになると、
「その境目」
あるいは、
「境界線」
というものが気になってきるのであった。
あれは、子供の頃だったか。公園で遊んでいると、近くの家から、おいしそうな匂いが感じられ、それがハンバーグの匂いだったりすると、
「ハンバーグの匂い」
というものが、
「夕方のお腹が減った時間」
ということを感じさせるようになった。
さらに、その時に腹の空き具合に関係なく、それよりも、けだるさから想像される遊歩の明るさを想像させるような、直接的な見え方以外のものを感じるようになったのだ。
そのおかげなのか、発想が繋がってきて、結局最後はその発想が一周回ってくるという感覚になることで、
「昼夜の境目が分かっていないつもりだったのに、いつの間にか、自分でも分かってくるように感じるのは、おかしなものだ」
と思うようになったのだった。
それでも、中学に入ると、
「鍵っこ」
ということで、家に帰ってくると、寂しさを感じていた。
最初の頃は、
「誰もいない部屋に帰ってくるというのは、それほど嫌なことではなかった」
と思っていた。
小学生の頃は、親がいることが、いるだけで、どこか鬱陶しいと思っていた。それは、小言を言われることが多かったからで、子供の頃に一番嫌だと感じたのは、
「これからやろうと思っていたんだけどな」
と思っていることを、言われる時だった。
最初の頃は、
「分かってるって」
といって、あからさまに嫌がっている様子を出していたが、それはあからさまにすることで、相手にこっちの気持ちを分かってもらろうとする、子供ながらの気に遣い方だったはずなのに、実際にはそうではない。
相手は、
「何、この子。親に逆らって」
としか思っていないのだ。
もちろん、子供としては、親に逆らっているつもりはない。逆らってもしょうがないと思っているからだ。
しかし、親としては、
「子供をしつけないといけない」
という意識があるからなのか、
「変な使命感のようなものが、圧となって迫ってくる」
と感じると、親というものの、
「あざとさ」
というものを、あからさまに感じるということが嫌だったのだ。
理屈は分かっているつもりなのに、分かっている理屈を、一体どのようにして相手に伝えるかということが、分かっていないのではないかと感じるのだ。
親としては、
「子供に理解させなければいけない」
と思って、その気持ちを抑えようとしているのだろうが、逆に分かってしまうと、
あざとくしか思えないのであれば、
「どっちが、諭しているのか分からない」
というものだ。
子供が、
「はいはい」
といって、理解しているそぶりを見せると、親が喜ぶのであれば、それでいいと思うのだが、
「何か、物足りない」
とでも思うのか、自分が分からせようと思った気持ちを、簡単に受け入れられると、今度は、
「自分が、悪いことをしたのではないか?」
という、気持ちになってしまうことがあったりする。
その思いを、どこまで分からせればいいのか?
ということを感じると、親が時々、
「自分の鏡ではないか?」
と感じることがあるのだ。
「親子というのは、一番近い存在のはずなのだが、一番近くに置いてしまうと、それ以外のまわりが見えなくなりそうで、怖いという感覚に陥ってしまう」
と考える。
「自分の親というものが、自分にとっての鏡だ」
と思うことで、逆に、親から言われて嫌だと思うことは、
「自分が大人になって。親になれば、絶対にしないようにしたい」
と思う。
今の時代はまだ、マシではないかと思っていた。
自分の親が子供の頃というと、その親、つまり、
「おじいちゃん、おばあちゃん」
から、厳しくしつけられたことだろう。
親だって、自分が子供の頃、
「自分が親になれば、子供が嫌がるようなことは、絶対にしないだろう」
と感じるに違いない。
それを感じると。
「親子の関係って、よくわからない」
と思うのだ。
なぜなら、
「子供の頃に思ったはずの考えを、どうして、簡単に捨てることができるんだろう?」
と感じるからだった。
もちろん、親が子供の頃に、
「本当に今の自分が感じていることを、感じていたと思うのは、子供の俺が勝手に思っていることなんだろうな」
と感じるのだった。
しかし、子供の自分が感じたこの思い、これは、ほとんど、
「真実に近い」
と思うほどの信憑性を感じるのだった。
「真実というのは、事実という薄い壁の積み重ねだ」
と思うことで、
「事実というものを重ねることで、真実から遠ざかっているのではないか?」
という思いに至ることがあった。
「事実は小説よりも奇なり」
と言われるが、まさにそのようで、
「奇なりである事実を重ね合わせていけば、そこに、生まれてくる真実というものが、無限に存在し、事実からは想像もできない形になってくるのではないか?」
と感じるのだった。
確かに、真実と事実が、決して同じではないと感じるのは、
「真実が、事実の積み重ねだ」
と考えるからだ。
「事実というものに、人の意志が伝わっているといえるのか?」
ということを考えた時、
「事実というものは、人の意志によって作られる世界の結果なのだ」
という考え方に則れば、
「人の意志が伝わっている」
といってもいいだろう。
しかし、
「事実があって、そこに近づこうとする意志があったとしても、その通りに行くかというと、そんなことはない」
といえるだろう。
事実というものを、
「歴史の真実としての結果」
だと思うと、
「事実って、本当に一つなのだろうか?」
と考えてしまう。
歴史というものが、何かの答えだということになると、
「歴史は、人の意志を反映したものではない」
といえるかも知れない。
というのは、
「人の意志を反映するには、人の数だけの、事実がなければいけない」
と考えられる。
実際に、
「可能性」
としては、
「人の数だけの可能性があるのかも知れないが、それは、自分一人で生きているわけではないので、その意志に対して賛同する人もいれば、逆らう人だっているだろう。賛成する人の中にも、賛同という形で行動を起こす人もいれば、賛成はするが、静かに見守るという人もいる」
ということで、考え方という発想から見ても、人の数だけの、パターンがあるということを、自分で証明することもできるだろう。
作品名:都合のいい「一周の夢」 作家名:森本晃次