都合のいい「一周の夢」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年9月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。
無限と限界
最近、よく、
「夢見が悪い」
という話をよく聞くことがある。
まるで、
「夢を見ているわけもない」
と思っているのに、気が付けば眠っていて、
「夢にうなされていた」
というもので、その夢の内容を、覚えているつもりのはずなのに、気が付くと、目が覚めていた。
ということなので、
「夢を見ていた」
という結論になるのだが、それこそ、まるで、
「結果論」
のようなものだと思えるのだった。
夢を見ていて、覚えている夢というのは、ほぼないだろう。
覚えている夢というと、
「怖くてうなされるような夢だけだ」
ということで、
「覚えていたい」
と思ったり、
「続きが見たい」
と思うものは、間違いなく、覚えていない。
それは、何かの力が働いているのではないかと思うほどで、その力がどこからきているのか、分かっているつもりなのだが、それを認めることは、自分で許せないと考えることであった。
夢というのは、
「目が覚める寸前の、数秒間で見るものだ」
と言われているようだが、言われてみると、
「まさにその通りだ」
と妙に納得してしまうのは、どういうことなのだろうか?
さらに、夢を見ていて、
「夢なのだから、何をしても、失敗することはありえない」
ということが分かっている。
空を飛びたいと思えば、空だって簡単に飛べるはずだということを理屈としては分かっているはずなので、実際に飛んでみようとするのだ。
それは、その見ているものが、
「夢だ」
ということを分かっているあkらで、だからこそ、見ている夢が辻褄が合わないはずだということも分かっていて、それを何とか自分で合わせようとするのも分かっているのだった。
だから、自分を納得させるつもりで、
「夢というものが、ごく短くて、そして、最後の最後で見る」
ということを言い聞かせると、他の辻褄の合わないことも、合わせてしまうと感じるのではないだろうか?
それも、
「実現できると思っていても、あくまでも、中途半端でしかない」
というのも、
「空を飛ぼうと思っても、飛んでいるわけではなく、ただ、宙に浮いているだけだ」
ということだ。
それでも、
「地表に足をつけていないのだから、それは、歩いているわけではないから、飛んでいる」
という一種の屁理屈になってしまう。
つまり、
「100点以外は、99点でも、0点だ」
という考えと、
「0点以外は1点でも、100点だ」
という考え方の、どちらに信憑性があるか?
という考え方である。
一口にいえば、前者は、減点法から考えた場合の考え方で、後者は、加算法の考え方だといっても過言ではないのだが、その場合の少数意見というものを出してきて、
「それぞれの考え方の信憑性を理屈で説明しようとして、途中で辻褄が合わなくなった時の考え方だ」
といえるのではないだろうか・
というのも、
「減算法でも、加算法でも、必ず途中に、境界というものがあり、
「そこを超えると、まったく別の世界が広がっている」
といえるのではないだろうか?
例えば、それは、この世の中にある、
「すべての境界線に近い何かがあるのではないか?」
というものであり、たとえば、
「昼と夜」
であったり、
「雨と晴」
というような、徐々にもう一方に近づいているので、無意識のうちに、もう一方が入り込んできても分からないというものである。
意識していれば、分かることもあるだろうが、
「じゃあ、厳密にどこから?」
と聞かれると分からないこともあるだろう。
例えば、
「渋滞の始まりって、明確にはどこからなのか?」
と言われた時、専門家でも迷ってしまうことだろう。
もちろん、簡単に分かるというのだろうが、それが分かったとして、どう解釈すればいいのか、無意識で分かっても、説明するとなると難しい。
だから、その説明がしやすいようにするために、
「すべてのものに、境界線というものを持たせて、それを説明できれば、いいように、世の中はなっている」
と言われれば、納得してしまう自分がいたりするのだ。
子供の頃に、
「一日のうちで、どの時間が一番好きか?」
と聞かれて、
「昼間」
という人が圧倒的に多いが、中には、
「夜」
という人もいる。
夜になると、涼しく感じられ、昼の喧騒とした雰囲気を嫌っている人が、夜というのだろう。
だから、
「昼が好きな人は、若年層に圧倒的に多いだろう」
と思っていたが、果たしてそうなのか? ということを考えさせられるのであった。
だが、昼と夜の違いというのは、子供の頃であれば、
「遊ぶ時間」
というものを基準にしているので、
「表で遊べるという時間として、圧倒的に昼が多いのだろう」
しかし、夜が好きな人は、
「学校から帰ってきて、寝るまで自由時間だらけだから」
という人もいる。
だからといって、そういう人が、
「学校に行くのが嫌いだ」
というわけではない。
「学校にいけば、友達に遭えるし、学校で運動場で遊ぶことができるからだ」
という人もいるだろう。
今の時代は、表で遊ぶよりも、部屋でのゲームなどの方が、圧倒的に多いので、
「学校から帰ってきてからの方が楽しい」
という人も多いことだろう。
それでも、きっと、昼間が好きな人は多い気がする。
夕方以降になると、
「怖いというわけではないが、何か気持ち悪さがある」
ということを感じる人が圧倒的に多いのかも知れない。
中学生になってから、ゲームを好きなだけしてもいい」
という環境になった。
親が共稼ぎで、家には自分一人しかいない。
昔なら、
「鍵っこ」
などと言われていたが、今では当たり前の光景だ。
確かに、
「ゲームはほどほどに」
と親から言われているが、そんないうことをまともに聞いたりする子供は少ないだろう。
しかし、朝倉少年は、親がいないことで、
「いくらでもゲームをしてもいいんだ」
という思いから、最初の数日は、確かにゲームばかりしていたが、それも、すぐに終わり、それが罪悪感からくるものなのか、自分でも分からないが、
「ゲームばかりしていてもな」
と考えるようになり、
無限と限界
最近、よく、
「夢見が悪い」
という話をよく聞くことがある。
まるで、
「夢を見ているわけもない」
と思っているのに、気が付けば眠っていて、
「夢にうなされていた」
というもので、その夢の内容を、覚えているつもりのはずなのに、気が付くと、目が覚めていた。
ということなので、
「夢を見ていた」
という結論になるのだが、それこそ、まるで、
「結果論」
のようなものだと思えるのだった。
夢を見ていて、覚えている夢というのは、ほぼないだろう。
覚えている夢というと、
「怖くてうなされるような夢だけだ」
ということで、
「覚えていたい」
と思ったり、
「続きが見たい」
と思うものは、間違いなく、覚えていない。
それは、何かの力が働いているのではないかと思うほどで、その力がどこからきているのか、分かっているつもりなのだが、それを認めることは、自分で許せないと考えることであった。
夢というのは、
「目が覚める寸前の、数秒間で見るものだ」
と言われているようだが、言われてみると、
「まさにその通りだ」
と妙に納得してしまうのは、どういうことなのだろうか?
さらに、夢を見ていて、
「夢なのだから、何をしても、失敗することはありえない」
ということが分かっている。
空を飛びたいと思えば、空だって簡単に飛べるはずだということを理屈としては分かっているはずなので、実際に飛んでみようとするのだ。
それは、その見ているものが、
「夢だ」
ということを分かっているあkらで、だからこそ、見ている夢が辻褄が合わないはずだということも分かっていて、それを何とか自分で合わせようとするのも分かっているのだった。
だから、自分を納得させるつもりで、
「夢というものが、ごく短くて、そして、最後の最後で見る」
ということを言い聞かせると、他の辻褄の合わないことも、合わせてしまうと感じるのではないだろうか?
それも、
「実現できると思っていても、あくまでも、中途半端でしかない」
というのも、
「空を飛ぼうと思っても、飛んでいるわけではなく、ただ、宙に浮いているだけだ」
ということだ。
それでも、
「地表に足をつけていないのだから、それは、歩いているわけではないから、飛んでいる」
という一種の屁理屈になってしまう。
つまり、
「100点以外は、99点でも、0点だ」
という考えと、
「0点以外は1点でも、100点だ」
という考え方の、どちらに信憑性があるか?
という考え方である。
一口にいえば、前者は、減点法から考えた場合の考え方で、後者は、加算法の考え方だといっても過言ではないのだが、その場合の少数意見というものを出してきて、
「それぞれの考え方の信憑性を理屈で説明しようとして、途中で辻褄が合わなくなった時の考え方だ」
といえるのではないだろうか・
というのも、
「減算法でも、加算法でも、必ず途中に、境界というものがあり、
「そこを超えると、まったく別の世界が広がっている」
といえるのではないだろうか?
例えば、それは、この世の中にある、
「すべての境界線に近い何かがあるのではないか?」
というものであり、たとえば、
「昼と夜」
であったり、
「雨と晴」
というような、徐々にもう一方に近づいているので、無意識のうちに、もう一方が入り込んできても分からないというものである。
意識していれば、分かることもあるだろうが、
「じゃあ、厳密にどこから?」
と聞かれると分からないこともあるだろう。
例えば、
「渋滞の始まりって、明確にはどこからなのか?」
と言われた時、専門家でも迷ってしまうことだろう。
もちろん、簡単に分かるというのだろうが、それが分かったとして、どう解釈すればいいのか、無意識で分かっても、説明するとなると難しい。
だから、その説明がしやすいようにするために、
「すべてのものに、境界線というものを持たせて、それを説明できれば、いいように、世の中はなっている」
と言われれば、納得してしまう自分がいたりするのだ。
子供の頃に、
「一日のうちで、どの時間が一番好きか?」
と聞かれて、
「昼間」
という人が圧倒的に多いが、中には、
「夜」
という人もいる。
夜になると、涼しく感じられ、昼の喧騒とした雰囲気を嫌っている人が、夜というのだろう。
だから、
「昼が好きな人は、若年層に圧倒的に多いだろう」
と思っていたが、果たしてそうなのか? ということを考えさせられるのであった。
だが、昼と夜の違いというのは、子供の頃であれば、
「遊ぶ時間」
というものを基準にしているので、
「表で遊べるという時間として、圧倒的に昼が多いのだろう」
しかし、夜が好きな人は、
「学校から帰ってきて、寝るまで自由時間だらけだから」
という人もいる。
だからといって、そういう人が、
「学校に行くのが嫌いだ」
というわけではない。
「学校にいけば、友達に遭えるし、学校で運動場で遊ぶことができるからだ」
という人もいるだろう。
今の時代は、表で遊ぶよりも、部屋でのゲームなどの方が、圧倒的に多いので、
「学校から帰ってきてからの方が楽しい」
という人も多いことだろう。
それでも、きっと、昼間が好きな人は多い気がする。
夕方以降になると、
「怖いというわけではないが、何か気持ち悪さがある」
ということを感じる人が圧倒的に多いのかも知れない。
中学生になってから、ゲームを好きなだけしてもいい」
という環境になった。
親が共稼ぎで、家には自分一人しかいない。
昔なら、
「鍵っこ」
などと言われていたが、今では当たり前の光景だ。
確かに、
「ゲームはほどほどに」
と親から言われているが、そんないうことをまともに聞いたりする子供は少ないだろう。
しかし、朝倉少年は、親がいないことで、
「いくらでもゲームをしてもいいんだ」
という思いから、最初の数日は、確かにゲームばかりしていたが、それも、すぐに終わり、それが罪悪感からくるものなのか、自分でも分からないが、
「ゲームばかりしていてもな」
と考えるようになり、
作品名:都合のいい「一周の夢」 作家名:森本晃次