都合のいい「一周の夢」
の話であった。
フランケンシュタインというと、
「怪物を作った博士」
であるが、ここまで考えてみると、
「ジキルとハイド」
という話も、ハイド氏を作ったのは、ジキル博士ではなかったか?
ということである。
あの話においては、
「自分の中にいるもう一つの性格である、正反対といっていい、極悪なハイド氏を、薬の力においてあぶりだす」
というような話ではなかったか。
つまりは、
「自分の中にある潜在意識を引きずり出した」
という形になるのだが、ジキル博士は、元々、自分の中に、ハイド氏がいるということを分かっていてのことだった。
ただ、
「これほど、恐ろしい人物だった」
ということを分からずに、薬の力で覚醒させてしまった。
しかも、自分とは正反対の性格でありながら、長所というか、短所も、相対しているということである。
それは、
「頭がいいところ」
ということであり、これは普通であれば、
「長所」
と言われることである。
しかし、
「長所と短所は紙一重」
と言われ、さらに、
「長所は短所の裏返し」
とも言われるのだ。
この言葉は、
「どちらから見ても、同じ方向で見えているものだ」
と言えないだろうか?
もっといえば、
「自分の目線というものは一つしかなく。だからこそ、長所と短所がハッキリと見えるのではないか?」
といえるのではないだろうか?
長所と短所というものが、正反対であるといっても、裏を返せば、ひっくり返せば、同じところに来るということになる。
長所から見れば短所であり、短所から見れば長所なのだ」
といえるであろう。
ただし、その見る目線が同じなので、長所を見ていると思うと、短所であっても、長所にしか見えないのだ。
だから、長所を中心に見ている人には、短所が見えないわけで、
「短所があるということは分かっているが、どこにあるのか分からない」
ということになる。
それは、短所を見る時と同じで、長所を見つけられないというのは、
「短所としてしか、自分を見ていないからだ」
といえるだろう。
フランケンシュタイン博士もそうだったのかも知れない。
人間にとっての、理想の人間を作ろうとしながら、見ていたのは、悪いところばかりであり、
「自分には、理想の人間など作ることはできないのではないか?」
という中途半端な考えを持ったことで、結局、最後には、
「何も答えになっていない世界ばかりが、言い訳のように積み重ねられることで、最後には、理想の人間を作り損ねてしまったのだ」
ということになるのだろう。
それが、
「人間に災いをもたらす」
という、いわゆる
「ハイド氏」
を作ってしまったということになるのだろう。
ただ、
「フランケンシュタインが、ハイド氏だ」
ということではない。
フランケンシュタインという話は、
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまったことで、そのまま放っておいたために、結果、被害を巨大化させる」
という物語であり、
さらに、この話の恐ろしいところは、
「本来ならブーメランであるところの、因果応報が、フランケンシュタインであるはずなのに、この物語においては、本人が殺されるわけではなく、まわりの人間が、どんどん殺されていくという話」
だということである。
ただ、これは、小説という意味では、二つの意味を持っている。
一つは、
「主人公が殺されてしまうと、話がそこで終わってしまう」
という、
「小説を物語として見た場合」
という理屈である。
そして、もう一つは、
「恐怖小説ということで、自分が最後には殺されるのだろうが、まわりの人が死んでいくのを、見ながら、自分がどんどん追い詰められていくということが、いかに恐ろしいものなのか?」
ということが、
「恐怖の境地だ」
ということになることであった。
そもそも、フランケンシュタインが、自分の創造したものに、絶望したのは、
「自分が作ったものが、あまりにもみすぼらしい」
ということからであった。
何といっても、
「墓暴き」
というのを行い、そこから死体を盗み出し、つぎはぎだらけのその姿に失望したということである。
実際に、フランケンシュタインは、怪物を置いて、逃げてしまった。
しかし、怪物は強靭な生命力で生き延び、完全な怪物となり、フランケンシュタインに復讐を考える。
自分と同じ怪物の異性を作ってもらおうと考えたのだが、フランケンシュタインは、
「怪物が増えることを懸念して、それを拒否」
怪物は、フランケンシュタインのまわりの人間を、どんどん殺していくことになるのだった。
そもそも、この、唯一といってもいい、
「人間らしい考え」
というものを持った、
「怪物が増えることを懸念する」
ということは、
「フランケンシュタイン症候群」
ということで、ロボットを作るうえでの、戒めとなっている。
フランケンシュタインという話は、
「美」
というものと、真っ向から歯向かうべき、
「醜悪な身体や顔」
と持っていることから、
「人間への憎しみは、醜さにある」
という、普通に当たり前の発想が、
「フランケンシュタイン症候群」
ということになるのだ。
だから、その分、怪物の感じている憎悪は、
「激しいものだ」
といってもいいだろう。
そんなフランケンシュタイン症候群と呼ばれるものは、
「ロボット開発」
というものにおいて、その問題が指摘される。
というのは、
「フランケンシュタイン症候群」
つまりは、
「悪魔のような人種を作ってしまったことで、さらに、増殖してしまう恐れがある」
ということから、ロボットの人工知能に、
「人間を攻撃しない」
という機能を付けておく必要がある。
そこで考えられたのが、
「ロボット工学三原則」
というものだった。
これは、科学者によって提唱されたものではなく、
「SF作家」
によって提唱されたものであった。
自分の小説の、
「ネタ」
ということになるのだが、それを、
「フランケンシュタイン症候群」
に引っ掛ける形で、提唱されたのであった。
ということで、第一条は、
「ロボットは、人間を傷つけてはいけない。そして、人間が、危機に陥ったということが分かったのであれば、身を挺してでも、人間を助けなければならない」
というものであった。
そして第二条として、
「ロボットは、人間の命令には服従しなければならない。ただし、一条に抵触してはいけない」
というものであった。
そして第三条は、
「ロボットは、自分の身は自分で守らなければいけない」
ということであり、これも、
「第一条、 第二条に抵触してはいけない」
ということであった。
要するに、この三条からなる原則は、
「第一条から、優先順位が確立されている」
ということである。
例えば、
「第二条の、ロボットは人間の命令に服従しなければいけないという項目」
であるが、
「人間の命令で、人を殺せというものがあった場合は、その命令は聞いてはいけないのだ」
なぜなら、第一条に抵触してはいけないということで、第一条は、
作品名:都合のいい「一周の夢」 作家名:森本晃次