都合のいい「一周の夢」
であったり、
「耽美主義」
と呼ばれるものだったりするのであった。
「耽美主義」
と呼ばれるものは、
「道徳や倫理などを度返しにして、最優先順位として考えられることを、「美」というものだということで考えられたもの」
それが、
「耽美主義」
と呼ばれるのであった。
実際に耽美主義と呼ばれるものとして、
「犯罪が描かれるようになったのは、変格派探偵小説の時代から」
ということではなく、実際に、日本に渡ってくる前の、ヨーロッパにおける探偵小説というと、
「耽美主義」
というものも結構あったことだろう。
というよりも、
「変格派探偵小説」
といってもいいものが結構あったのではないか?
実際に、
「ジキルとハイド」
の多重人格性の話であったり、
「フランケンシュタイン」
のような、
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」
という、一種の、
「ブーメラン」
のような話として、一言でいえば、
「因果応報」
といってもいいような話が、戦前に日本で流行ったところの、
「変格派探偵小説」
といってもいいのではないだろうか?
そういう意味もあって、
「多重の夢」
として、
「ジキルとハイド」
の話が例に出されるのであれば、
「合わせ鏡の話」
として、
「フランケンシュタイン」
の話が例に出てきてもいいのではないだろうか?
そんなことを考えると、
「変格派探偵小説」
というものから、
「探偵小説黎明期」
を思い起こしてみると、
「今の時代にも、あてはまるような内容の物語ができるのではないか?」
と、朝倉青年は考えていた。
さすがに、
「勧善懲悪を、ワンパターンで描く」
ということよりも、
「変格派探偵小説」
というものを、
「今の時代によみがえらせる」
と考える方が、面白いと思うのだった。
しかし、一時期から、今でも流行っているような、
「アニメ化された探偵もの」
というものは、あまり好きにはなれない。
あくまでも、
「子供向け」
ということであるので、トリックに凝ったものはなく、さらに、子供むけということで、
「猟奇殺人」
「異常性癖」
「耽美主義」
というのは、ある程度まではいいが、それ以上は、表現できないということで、
「変格派探偵小説」
としても、
「本格派探偵小説」
としても、成り立たないといってもいい。
それでも、目指しているのは、
「本格派と変格派探偵小説」
というものを、いかに、うまく織り交ぜるか?
ということであった。
そのためには、
「推理小説」
と呼ばれるジャンルに、
「ホラー」
「オカルト」
などというものを織り交ぜる形が多かったりする。
「森の中に建っている、古城」
であったり、
「無人島にある元財閥の屋敷」
であったりなどというのが、
そんな中で、
「昔の財宝が、無人島の洞窟に眠っていて、それを聞きつけた、金の亡者が、訪れて探検するのだが、最後には、変死体となって見つかっている」
などという、
「いわれのあるところ」
だったりする。
本当であれば、
「そんなところには、立ち寄ってはいけない」
ということで、
「立ち入り禁止」
ということにすべきなのだろうが、
「探検に来た人が死んでいく」
ということも、実際には刑事事件にならず、伝説として残っているというところだったりするのだ。
それが、
「マンガだから、許される」
ということであろうが、
「警察というものがいかに、事件性のないことは、打て合わないか?」
ということからきているという話もあったりした。
さすがに、朝倉も、
「そういう、子供だましのようなものは、俺には書けない」
ということで、大学時代に、小説を書きたいと思ったが、なかなか、最初の作品ですら書き上げることができなかったのだ。
ただ、小説というのは、
「とにかく、どんな作品であっても、書き上げるということが大切なのだ」
ということを、大学時代に、
「小説を書きたい」
と思った時に知った。
ほとんどの人が、
「書きたい」
と思って、筆を進めるのだが、最後になって、辻褄が合わなかったり、納得のいくものでなかったりして、最後には、
「あきらめてしまう」
ということが、多かったりした。
それを考えると、
「小説を書く上での、ハウツー本」
を見ていると、
「最後まで書ききることができないのは、自分には小説を書くなどという大それたことはできない」
という自己暗示にかけているからだと書いている。
フランケンシュタイン症候群
合わせ鏡というのは、
「自分の身体の前後左右のどちらかに、鏡を置いた場合」
のことをいう。
前後に置いた場合だが、
「その鏡というのは、まずは、目の前の自分を映し出すのだが、その映し出した鏡に映っている自分の後ろにも鏡があることになり、その鏡には、自分の後姿が写っている。さらに、その向こうには、前を向いた自分の姿が……」
ということで、
「どんどん、その姿や光景が小さくなっていく」
というもので、まるで、
「鏡の中に、鏡がある」
という感覚である。
だから、鏡はどんどん小さくなっていくのだが、理屈から考えると、
「どんどん小さくなってはいくが、消えてなくなることはない」
つまりは、
「無限に続いていくもの」
ということである。
しかし、実際には、どんどん小さくなっていっているわけで、
「いずれは、ゼロになるのではないか?」
と考えられるが、理屈上では、
「ゼロになる」
ということはありえないのだ。
ということは、
「限りなくゼロに近い」
という存在になるのであり。この理屈は、
「マトリョシカ人形」
と同じ考えであるといえるだろう。
そんな鏡を見ていると、
「無限と限りのあるものとで、どういう違いがあるのか?」
と考えさせられる。
もっといえば、
「無限というものは、本当はあり得ないのではないか?」
という結論に達する。
つまり、
「これ以上は無理だ」
という無限の一歩手前のものが、存在するかどうか?
というのが、問題なのではないだろうか?
昔の古代人が、地球を創造した時、すでに、
「地球は丸い」
ということを表していて、その果てを示していなかったように思えたのだが、その発想でよかったのだろうか?
そもそも、
「無限という発想があれば、形にする」
ということはできないのではないだろうか?
地図を書くことはできても、行きつく先までであり、それ以上先を描くのは、
「その世界に入り込んでみないとできない」
ということになるだろう。
つまりは、小さくなって。その模型の上を地表として、その目線で見なければ、
「地球というものを、見ることができない」
それは、合わせ鏡の最後のところで、
「限りなくゼロに近い」
という存在で、それが、世の中の果てのすぐ手前に見えるその世界というのが、
「限りなくゼロに近く。ゼロといってもいい世界」
なのではないか?
ということである。
そんな合わせ鏡の夢の中で、想像したのが、
「フランケンシュタイン」
作品名:都合のいい「一周の夢」 作家名:森本晃次