都合のいい「一周の夢」
「小説家になりたい」
と、単純に思うようになった。
一年生の時、
「大学に入ったら、何かやりたい」
と思ったが、なかなか見つからない。
そう思っている中で、友達に、
「遊びに行こうぜ」
と言われると、簡単に誘惑に負けてしまって、友達にいつもついていくようになったのだ。
といっても、自分から何かをするというわけではなく、ただ、
「一緒に街に出かける」
ということであり、友達が遊びにいくとことに、
「ただ、ついていく」
というだけのことだった。
ついていく場所というのが、どこであっても、毎回同じというわけではない。
だから、何も言わずについていくのだったが、それも、半年もすれば、急に、ふと、何かを考えるようになる。
「俺って、都合よくつかわれているのかな?」
ということであった。
だが、その思いは結構前の頃から思っていたことであって、
「今までに感じたことのない思いなんだけどな」
ということであった。
というのは、
「確かに友達とどこかに出かけるのは面白いのだが、どうも、いつも楽しい思いというものに誘われる形で、結果として、自分がどこかに置き去りにされているのではないか?」
と感じるのだった。
まるで、
「梯子を掛けられて、この上に昇れば、楽しいものが見れるぞ」
と言われ、
「昇ってみると、梯子を外された」
という感覚である。
それでも、苦笑いをしながら、友達に逆らうことができないのは、
「引っかかった俺が悪いんだ」
という思いが強くあるからであった。
というのも、
「簡単に引っかかる自分が悪い」
という思いは昔からあった。
しかも、
「よく騙されやすい」
という思いも、まわりから、よく指摘されてもいたのだが、それでも、自分の中で、
「騙される方が、騙すよりの、百倍もいい」
という思いがあったからだ。
それは、自分の中にある、
「勧善懲悪」
という感情が大いに意識として働いているからではないだろうか。
最近では、テレビで見ることもなくなったが、その頃はまだ、夕方の時間になると、民放などでは、
「人気時代劇」
ということで、
「勧善懲悪」
と言われる番組をやっていた、
そう、いつも同じパターンの話で、
「その原因が違う」
というだけであったが、最後の方は、そのパターンも出尽くしたのか、皆から、物まねをされるくらいのパターンでしかなくなってしまったという、シリーズであった。
「悪代官が、色とお金に炙れ、そこに、悪徳商人が絡んでくることで、理不尽な話が出来上がる」
というものだった。
なぜか、いつも、悪徳商人は、
「越後屋」
であり、悪の権化は、代官なのだ。
それを取り締まる、
「正義のヒーロー」
というのが、
「お忍び」
で、全国を漫遊しているという、実際にはそんな職はないのに、強引につけた、
「副将軍」
であったり、
「背中に入れ墨を施した、お奉行様」
だったりする。
そのうちに、
「将軍様」
が、街火消しと仲良くなり、その元締めだけが、主人公の正体を知っているという話だったりする。
他にもいろいろなパターンがあるのだろうが、そういうパターンの時代劇を見ていると、高校時代までは、嫌いだったはずの時代劇が、嫌だというわけではなくなったのだ。
もちろん、
「毎回同じパターン」
というところは、気に入らなかったが、それでも、なぜか、
「年寄りには、絶大な人気がある」
というのであった。
少しすると、そんな年寄りの人気が下がったというわけではないが、それ以上に、
「放送局の都合」
というのか、それとも、
「スポンサーの都合なのか?」
ということが分からなかったが、次第に、時代劇というものが、民放から減っていったのだ。
確かに、
「有料放送」
というものができてきて、そっちで、
「時代劇専門」
のチャンネルができたり、
「サスペンスドラマ専用」
のチャンネルができたりして、そっちで楽しむ人が多くなった。
きっと、
「スポンサーや、放送局に事情」
というのは、そのあたりなのではないだろうか?
朝倉青年は、
「時代劇のような話を書きたいとは思わない」
とは思ったが、
「なぜ、老人に時代劇が人気があるのか?」
ということを考えてみた。
確かに、
「年寄りの方が、勧善懲悪が好きだ」
ということは分かる気がする。時代の流れから、理解できないわけではないが、それよりも、
「どうして、あんなにワンパターンな番組がいいのかが分からない」
と思えたのだ。
放送局も途中から、路線変更を考えたのか、
「ワンパターン」
な中に、中年男性の客層をつかもうとしたのか、
「女優の入浴シーン」
を織り交ぜ始めた。
一時期は人気が復活したが、やはり時代の流れに逆らうことはできないということなのか、どうもうまくいかないようだった。
それでも、テレビの創成期から、
「時代劇」
というのは、ずっと変わらぬ人気があった。
確かに、
「同じパターンであっても、見続けるという人」
そして、やはりいえることは、
「勧善懲悪」
というものが、いかに、人気を博すということなのか?
ということなのであろう。
朝倉青年は、それを、
「現代における勧善懲悪」
ということで描こうと考えた。
実際に描いてみるのだが、どうも、なかなかうまくいかない。
何といっても、現代というのは、昔と違って、捜査に人数も掛けるし、民主主義という考え方だけではなく、
「法治国家」
と言われるほど、法律がしっかり出来上がっているからである。
ただし、いくら、
「法治国家」
であり、
「民主主義」
の社会といっても、実際には、ある程度の限界がある。
ほどんどの事件は検挙され、
「検挙率は高い」
と言われているが、実際に、
「検挙される事件でなければ、警察は取り合わない」
ということもある。
例えば、捜索願が出されても、警察は、
「事件性がなければ、取り合わない」
ということだ。
さらに、現代の警察は、
「縄張り意識」
というものがあり、
「管轄同士で、それぞれ、検挙率を争っていたり、下手をすれば、事件の取り合い」
などということをするのだった。
だから、
「平成の刑事ドラマ」
などというと、
「警察組織に対しての、一刑事の挑戦」
というものが話題になったりしている。
それまでの昭和の時代の刑事ドラマというと、
「ヒューマンドラマ」
であったり、
「社会派」
と呼ばれるドラマが多かった。
特に戦後にあった、
「探偵小説」
と呼ばれるジャンルであれば、それは、
「本格派探偵小説」
と、
「変格派探偵小説」
というものに分かれていた。
「本格派」
というのは、
「探偵小説」
というものは、
「謎解きやトリックなどを駆使する形の小説で、それを、主人公の探偵であったり、刑事などが、爽快に解決していく」
という内容である。
そして、
「変格派探偵小説」
というのは、
「それ以外の探偵小説」
と呼ばれるもので、内容とすれば、
「猟奇犯罪」
であったり、
「変質者による、異常性癖」
作品名:都合のいい「一周の夢」 作家名:森本晃次