都合のいい「一周の夢」
「双極性障害」
という病気が、まれだったのではないだろうか?
今、この病気が流行ってきているという証拠である。
特に、今の時代は、
「スマホの普及」
などにより、
「SNSの時代」
ということで、
「匿名性のある交流サイトで、すぐに仲良くなれるのだが、何しろリアルではないので、お互いに勘違いしていたり、嫌いになったりということで、相手に対しての思いというものが、まったく変わってしまう」
ということが起こってくるのだ。
それによって。
「相手を誹謗中傷する」
ということが多くなってきた。
そもそも、パソコンでのインターネットが普及してきた頃に問題となった、
「コンピュータウイルス」
であったり、
「サイバー詐欺」
などというものが流行ってきたことで、重視されるようになったのが、
「個人情報保護」
というものであった。
プライバシーの保護というものが、一番の問題となり、
「SNSでも名前も、本名を名乗らない」
というのが当たり前となり、
「個人情報を特定するものを、提示しては危ない」
ということになり、
「それを誘い出すように聞き出す行為は、法律違反である」
ということになってきたのだ。
「なんとも、物騒な時代になってきた」
ということなのだろうか?
ただ、
「詐欺」
などの犯罪は昔からあったことであり、
「今に始まったことではない」
それを考えると、
「社会においての便利なもの」
というのは、
「自分にとって、都合のいいこと」
というものと、
「相対しているものではないか?」
といえるのではないだろうか?
そう思うと、
「夢というものも、自分にとって、都合のいい」
いや、
「悪い」
と呼ばれるものとして、解釈されるものではないかと考えるのだった。
「夢というものを、眠っている間に見る」
というのは、ある意味、自分の双極性を感じさせるものであり、
「それは、何も病気という側面だけではなく、誰にでもあるものが、
「双極性」
というものであり、逆にいえば、
「双極性障害」
というものは、
「誰にでもいつだって起こりえることではないか?」
といえるような気がした。
医者でもないのでハッキリとしたことは言えないが。もしそうだということであれば、
「まずは、医者に相談すること」
ということが必須になる。
医者でも、誤審をしてしまうくらいにデリケートな問題なのだから、素人があれこれというのは、
「筋違いだ」
といえるのではないだろうか?
だから、
「怖い夢というのは、躁鬱症であれば、その時々によって変わってくるのではないだろうか?」
と思えて。
うつ病という診断であったり、双極性障害などという病気だったりと、若干の違いはあるだろうが、うつ病の人が、
「今までの精神状態と違っている」
というのは、
「怖い」
という感情が、その時々で違うということだから、不安を払拭できず、恐怖というものを、自分の中で増幅してしまうのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「夢には多様性」
というものがあるような気がして。
それよりも何よりも、
「夢というものが、不安を増幅するということで、恐怖がどこからやってくるのか?」
ということを考えると、その恐ろしさというものが、漠然と、
「怖い」
と感じさせるのかも知れない。
夢をいうものを見ていると、普段であれば、
「夢の中ではなんでもできる」
と思い込むことだろう。
だから、
「夢の中だから、空だって飛べる」
と思い込んでいるが、実際に空を飛んでみると、
「宙に浮くということはできるが、実際に、飛行機や鳥のように、飛行することはできない」
ということが分かる。
しかも、そのことは、
「最初から分かっていた」
と感じるものだ。
「夢を見ているということが、最初から分かっている」
というのも、おかしなもので、だからこそ、
「空を飛べる」
という発想も、自分の中で、
「ウソだ」
ということを常識として意識しているので、できるとしても、
「宙に浮くくらいだ」
と、勝手に解釈したことが、実現するということになる。
そういう意味で、
「夢というのは、潜在意識の中で、できると感じることの実現を、可能ならしめるものではないか」
といえるのではないだろうか。
とにかく、
「夢というものが曖昧なものだ」
と感じるのは、
「夢の世界と現実世界の曖昧な部分のみを結合させ、さらに曖昧にしたことを夢というのではないか?」
と思うのだ。
だからこそ、
「曖昧なことだけしか見せない」
ということで、
「夢というのが、自分にとって、どれほど都合のいいものなのか?」
ということを感じさせる。
しかし、その都合のいいことであっても、そこには、
「理屈に敵っていないといけない」
という、
「自分の中のルール」
というものがある。
だから、そのルールに則って考えると、
「夢が、現実世界に影響を与えるのか?」
あるいは、
「現実世界が、夢を都合のいいものにしよう」
として、操っているのか?
そのどちらも間違っていないようで、その夢の中の代償というのが、
「曖昧さ」
であり、
「都合のよさ」
ということではないかと、感じるのであった。
夢を見ている中で、
「多重性」
というものがあるが、
「夢が多重性なのか?」
それとも、
「人生が多重性なので、夢に影響を与えるのか?」
と考えさせられるが、何といっても、
「夢というのが、都合のいいもの」
と考えるのであれば、
「そのどちらもありではないか?」
と思うのだ。
だとすれば、夢の多重性を、考えることで、
「ジキル博士とハイド氏」
のような話を作り出したのであれば、
「都合のいい発想」
というものを、別の発想としての、
「ポジティブな考え方」
といってもいいかも知れない。
ただし、これは、現実社会においての話ではない。
それを考えると、
「都合のよさとは何なのか?」
と考えさせられるのであった。
「合わせ鏡」の夢
最近、大人になってから、
「都合のいい夢」
というのをあまり見なくなった気がした。
それがどういうことなのか?
ということを考えると、
「自分が大人になったからではないか?」
と、朝倉青年は思うようになった。
大学時代くらいまでは、いつも、どこか都合のいい夢を見ていたと思っている。
そのくせ、
「覚えている夢は、怖い夢ばかりだった」
という思いに至るのだったが、最近では、怖くない夢も覚えていることが多くなった。
そのため、
「いつも夢を見ている」
という感覚になってきたのだが、やはり子供の頃に感じていた。
「夢というのは、毎日見ていて、ただ、覚えていないだけではないか?」
という発想が、
「ウソではなかった」
という思いであった。
大学時代になってから、一度、
「夢というものは、都合のいいものだ」
というような小説を書いたことがあったが、それを見て、
「なかなか面白い」
と、教授に褒められたことで、朝倉青年は、
作品名:都合のいい「一周の夢」 作家名:森本晃次