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お教とお香の覚醒

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「実際に見たわけでもないので、どこまで本当か分からない」
 ともいえるが、
「歴史書などというものは、書いた方に都合よく書かれていることが多いので、どこまでが本当のことなのか、そもそもが怪しいということになる」
 ということである。
 よく、そんな時代に、
「タイムスリップする」
 という小説やマンガがあるが、その手の話は山ほどある。
 それだけでは、話としては、少し甘い。だとすると、そこからのバリエーションが大切であろう。
 当然、タイムスリップした先がまず問題になるのであって、その時代を、残っている資料を元に、
「史実」
 とされていることにかぶせるようにして話を進める。
 つまりは、
「タイムパラドックスが起こらないように、神経を遣って、時代を生き抜く」
 という考え方であったり、
 あるいは、
「史実に敢えて逆らう」
 という形で、
「その時代がすでに、狂いかけているのであれば、元に戻すということをせずに、その人が天下人でなければ、その人が天下を取れるように、動いてあげる」
 ということである。
 何しろ、自分は、歴史を知っているのだから、これほど力強いことはないだろう。
 しかし、知っているといっても、
「学校で習っただけ」
 という歴史であり、それこそ、戦国武将の一生を、数行で表しただけのことである。もっと言えば、数人の名前が書かれていて、
「……などという、戦国武将たちが、群雄割拠した時代であった」
 などと、
「その他大勢」
 で描かれているだけだったというのも、大いにあるだろう。
 ただ、最近の歴史は、それこそ、ゲームで興味を持つので、少しは、独学で勉強することが多くなった。
「学校で教えないような知識をもっているのだから、俺はすべてを知っているんだ」
 というような、おかしな認識を持っている人というのも少なくないだろう。
 そんなやつが、中途半端な知識で、歴史をその通りにしようとするのだから、それこそ、
「歴史に対しての冒涜である」
 といってもいいのではないか。
 それを思うと、
「歴史を変える」
 ということが、実に簡単にできてしまうのか?
 ということを思い知ることになるかも知れない。
 ただ、以前見た映画の中で、戦国時代にタイムスリップした連中が、何かの部隊であり、彼らの持っている兵器を使って、
「天下を取ろう」
 という野心をもってしまったのだった。
 もちろん、歴史的な知識もあり、
「タイムパラドックスの恐ろしさ」
 というものを分かっているのであったが、
 考えてみると、
「俺たちが、この時代にいるのは、当然のように、何かの理由があるからだ」
 と考えたとしても、それは無理もないことだ。
 ということになれば、その理由は別として、自分たちが、天下を取ったとしてもそれは無理もないことで、それが、
「歴史が出した答え」
 なのかも知れないと、都合のいい考え方をしてしまうのだろう。
 歴史というのは、
「時間に左右されるドキュメント」
 といってもいいだろう。
「リアルなのだから、当然、時間の流れが同じであり、それは、今の自分と平行線を描いている」
 といってもいいだろう。
 しかし、それは考えてみれば、当たり前のことであり、ただ、一つ言えることは、
「交わることのないのが、平行線だ」
 ということになるのであろう。
 だから、
「タイムスリップでもしない限り、別の時代にはいけない」
 ということであり、
「同じ次元に、同一人物がいてはいけない」
 という、
「ドッペルゲンガー」
 というものを、
「摩訶不思議なもの」
 ということになるのだろう。
 その映画で見た内容は、
「主人公は、タイムパラドックス」
 というものを理解もしていて、だからこそ、自分たちが、この時代に存在していることを憂いていて、これからの行動に対して。
「どうしたらいいのか?」
 と考えていた。
 そして得た答えは、
「歴史が、俺たちをこの時代に呼んだのだとすれば、何をやっても、それは運命でしかないんだ」
 と考えると、
「ここで何もしないということこそ、歴史に対しての冒涜で、これが俺たちの運命というものなのだ」
 という結論に達した。
「何をしても、それは運命だということであれば、自分の気持ちに素直になるだけだ」
 ということで、彼らは、天下取りにまい進するのだった。
 実際に彼らは、
「兵器の威力」
 を最大限に生かし、次々に隣国を席巻し、侵略を開始する。
 もちろん、電光石火の力があり、そうしなければいけない理由があったのだ。
 というのは、
「兵器には限りがある」
 ということだ。
 何といっても、
「現代の兵器」
 というのは、無限ではない。
 なぜならば、
「兵器というのが、燃料を使って動くものだ」
 ということだからである。
 この時代に、
「燃料となるものがあったとしても、それを兵器に利用できるノウハウがあるわけでもなければ、その道具すらない」
 ということになり、結果として、
「最後には、ただの鉄くず」
 と、兵器が化してしまうということになるであろう。
「弾薬だって尽きることだし」
 ということで、
「弾薬が尽きた時、自分たちが、この時代の武器で戦うことができるか?」
 ということであったが、そもそも、歴史が、自分たちに何をさせようか?
 と考えると、
「そこには、自分たちが分からない、何かの暗躍があるに違いない」
 と感じるのだった。
 このような映画は、実際には、複数政策されていた。
 それぞれに微妙に時代も違っていて、ストーリーも違っている。
 一つは、
「その時代に、いなければいけない武将が存在していない」
 ということが、主人公に分かってくると、主人公は、歴史というものが、俺たちに、
「その武将になって、歴史に名を遺せ」
 ということを言っていると感じた。
 しかし、その武将は、群雄割拠の中での大大名であったが、史実としては、
「天下を取った」
 というわけではない。
 それでも、この時代に自分たちを越させたということは?
 ということで、
「これは、歴史を変えるチャンスだ」
 ということになった。
 この時点で、主人公には、
「タイムパラドックス」
 というものを犯す恐怖感覚はマヒしていた。
「俺たちが、歴史を切り開く」
 という、前向きにしか見ていないのだ。
 だが、これは、
「前向き」
 というよりも、もっといえば、
「前のめり」
 だといってもいいだろう。
 そんな時代にやってきた彼らは、本当に天下が取れるのだろうか?
 実際には、彼らがどうなったのかというと、
「いよいよ、これから、天下取りに向けての、初陣を飾ろう」
 としてその時に、彼らは、忽然と消えてしまう。
 それは相手の武将が戦をしようとして、大将の、
「かかれ」
 という言葉とともに、突っ込んでいったにも関わらず、そこには何もなかった」
 というオチである。
 では、いなくなった彼らはどうなったのか?
 タイムスリップしたのだろうことは、当たり前に分かったのだが、その先をその映画は映していない。
「何をさせようとしたのか?」
 ということは、曖昧になってしまったが、少なくとも、
作品名:お教とお香の覚醒 作家名:森本晃次