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お教とお香の覚醒

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「タイムスリップ」
 というものだ。
 しかし、それ以外にも、
「あの頃に戻れたらな?」
 であったり、
「あの時を、もう一度やり直したい」
 という願望のようなものがあり、そんなものがあるのかも知れないという考えも無きにしも非ずであった。
 それが、
「タイムリープ」
 であり、
「タイムループ」
 だったりする。
 元々、タイムスリップにしても、SF小説から出てきたのであろうが、
「火のないところに煙は立たず」
 ということで、ひょっとすると、過去に事例があったのかも知れない。
「浦島太郎」
 など、完全に、タイムスリップといえるのではないだろうか?
 タイムスリップというと、一番ポピュラーで分かりやすいものだといえるだろう。
「タイムマシン」
 や、
「ワームホール」
 という考え方も、タイムスリップから出てきたからである。
 それが、そのまま、考えられるようになったのであろう。
 タイムスリップという発想は、
「タイムパラドックス」
 というものが裏に潜んでいるといってもいいだろう。
「タイムパラドックス」
 というのは、過去に行った時の問題のことである。
 そこには、考え方として、
「パラレルワールド」
 という発想が広がっていることであった。
「パラレルワールド」
  というのは、
「次の瞬間には、無数の可能性が潜んでいる」
 という考え方で、人間は、それを無意識に行動しているので、意識することもなく、
「瞬間瞬間を乗り切っている」
 といってもいいだろう。
 ということはどういうことなのかというと、
「無数にある可能性の中で、自分が過去に戻ることで、その歴史を変えてしまったら、どうなるか?」
 という発想である。
 同じ時代の人が変えたとしても、それは、結局未来には、自分が知っている世界になるということになるのだ。
「要するに、未来から来た人間が、その時の状況を変えたとすれば、その先に待っている世界は、どうなっているか分からない」
 ということである。
 ただ、一つ疑問なのは、
「誰かが過去に戻って。歴史を変えると、次の瞬間からの歴史は、すべてが変わってしまう」
 と考えられているわけだが、その変わってしまった歴史を、誰も意識していないということになるのだろうか?
 そこから以降の歴史が、すべて、畳をひっくり返したかのような
「大どんでん返し」
 となるのだから、時系列で動いている歴史が、その意識までも、
「その前がどうだったのか?」
 ということを、無意識に、辻褄が合うようになっているということであろうか?
 それが、自分だけではなく、その時代に生きている人すべてにおいてのことであり、時間軸にいる、そのすべての人物にまで、その影響を及ぼすということになるのである。
 それこそ、いくつもの道があり、その道に関係のある人、いや、動物や植物を含めてに対しても、辻褄が合うという意識を植え付け、しかも、
「何もなかったかのような意識になる」
 ということであるから、
「過去に戻って歴史を変える」
 ということが、
「どれほどのエネルギーとなるのか?」
 ということになるのだ。
 だから、
「歴史を変えると、ビックバンが起こり、世界が破滅する」
 とまで大げさとも思える学説を、当たり前のように唱える学者もいるのだろう。
 何しろ、その影響が計り知れないのだから、それも当たり前のことだといっても過言ではないだろう。
 また、時間軸というものがあったとして、その時間軸が、どれほどの壁として存在していて、それがいくつなのか?
 と考えると、
「その時々で、自分が何人もそこにいて、自分だけではなく、自分にかかわっている人がたくさんいる」
 ということになるのだった。
 そういう意味でいくと、
「1分前に戻る」
 と考えたとして、そこまでに、
「いくつの壁があって、何人の自分、そして自分にかかわっている人がいるというのか?」
 と考える。
 これはあくまでも、
「自分を中心にした時間軸」
 であるが、その間に、それまでかかわっていなかった人が、かかわってくるという可能性も十分にあり、逆に、かかわっていた人間がかかわらなくなったという可能性もある。
 もっと言えば、
「生まれた人もいるだろうし、死んだ人もいる」
 ということになるわけだ。
 そこまで考えてくると、もう一つの疑問がわいてくる。
 それは、
「自分にかかわりのない思っている世界は、本当に同じ世界に存在している」
 といえるのであろうか?
 確かに、かかわっていなかった人が、かかわってくるのだから、
「最初から同じ世界だった」
 といってもいいだろう。
 しかし、
「自分の世界」
 と思っている世界だからこそ、うまくいっていると言えないのだろうか?
 あまりにも同じ時代の世界が大きくなると、そこに、時間軸という可能性を含む、
「無限も世界」
 が広がっているとすれば。その果てしなさは、とんでもないことになる。
「じゃあ、この世界は誰が作ったというのか?」
 ということになるのだが、
「一つの時代を作った者」
 と、
「時間軸を作った者」
 というものが違っているとすれば、それをうまく組み合わせるのが難しいと考えた時、
「一つの時代」
 という世界と、
「時間軸」
 という世界とでは、まったく違う世界なのだと考えるのが、たぶん、今の世界を説明するのに、一番納得がいくことなのかも知れない。
 だから、
「我々は、一つの時代に対しての、平面的な発想は思いつくが。そこに時間軸というものを考えた時、過去は思い出せても、そこは平面でしかなく。未来に至っては。まったく分からない」
 ということになるのだろう。
 なぜなら、
「過去は変えられないが、未来は変えられる」
 という考えがあるからに違いない。
 そう思うことで、未来に思いを馳せたり、自分の人生を託すということができるのだ。
 そういう意味では。
「未来というのは、人間、あるいは、それを意識している生物に、平等に与えられているものなのかもしれない」
 といえるだろう。
 ただ、
「人間は、生まれながらに平等だ」
 といっている人がいるが、果たしてそうなのだろうか?
 つまりは、
「人間は、生まれることを選べない」
 といえるのではないだろうか?
「どこの誰の間に生まれた」
 ということで、半ばその人の運命が決まってしまうということも往々にしてあるというものだ。
 それは、
「いつの時代の、dこの国」
 ということでも決まってくるというもので、
「日本であっても、江戸時代などは、士農工商という身分制度に分かれていて。結婚はおろか、職業選択の自由もない」
 といえるだろう。
「百姓に生まれれば、死ぬまで、いや、末代まで百姓だ」
 ということである。
 世界でも、古代などは、奴隷制度があり、それが、
「当たり前」
 のような時代があった。
 映画などでは、奴隷の気持ちを描くようなものがあったが、本当に、昔の奴隷に、自分たちの立場をおかしいと思うような発想があったのかどうか、難しいところである。
 映画などにするなら、
「奴隷制度はいけないこと」
作品名:お教とお香の覚醒 作家名:森本晃次