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お教とお香の覚醒

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「領主が、その人の土地を保証するということに対して、領民は、何かあった時、真っ先にはせ参じる」
 ということで、
「いざ鎌倉」
 などという言葉があったほどである。
 ここに、統治する側とされる側の間に、
「ご恩と奉公」
 という関係が結びつくことでの統治ということになったのだ。
 しかし、時代は、
「幕府の弱体化」
 そして、
「国人や、配下の人間による、クーデター」
 という、
「下剋上」
 という時代が起こり、それが、
「群雄割拠の戦国時代」
 に入っていったのだった。
 ちょうどその時に、海外では、
「大航海時代」
 というものが起こってきて、それが、
「キリスト教の伝来」
 をもたらしたといってもいいだろう。
 しかし実際には、
「キリスト教の布教」
 というものは、実は、
「宣教師を先遣隊として送り込み、そこで、自国の宗教との間で諍いを起こさせて、その混乱に乗じて、相手国を占領してしまう」
 ということを常套手段として、
「植民地を拡大していったのだった」
 それが、ヨーロッパに国々による、
「植民地」
 というものであり、日本もその運命に直結していたのだ。
 それにしても、
「キリスト教と、自国の宗教が争い、混乱が起こるほど、キリスト教の教えというのは、どこの国でも受け入れられる」
 というものだったということであろう。
 そう簡単に、キリスト教の布教というものがうまくいくというのは、すごいことであろう。
 そんなに誰もが、キリスト教を信じたということは、
「本当にキリスト教の教えが、教えとしては素晴らしいものだったということなのか?」
 それとも、
「日本のように、領主による搾取がすごかった」
 ということになるのかのどちらかであろう。
 そもそも、
「武力による支配」
 というのは、日本に限られたことではないので、キリスト教というものを、
「救世主」
 として受け入れたとしても無理もないだろう。
 そして、それだけ宣教師というものが、
「洗脳がうまかったのか?」
 ということになるだろう。

                 宗教と洗脳

 今の新興宗教というのを見てみれば、
「どれほど、宗教における、洗脳というものが、いかに人々の心を打ち、盲目にしてしまうか?」
 ということになるであろう。
 そして、
「宣教師というものが、どれほど恐ろしく、自国を亡国にしてしまうか?」
 ということが分かってか、戦国時代から、
「キリスト教の布教を禁止した」
 ということが結構あった。
 そのとどめが、
「江戸幕府による、鎖国政策だ」
 といってもいいだろう。
 これに関しては、
「江戸幕府のファインプレーだ」
 といってもいい。
 キリスト教を受け入れたり、禁止したりというように、二転三転したのは、何といっても、
「海外貿易」
 というものが、引っかかってくるからだ、
「キリスト教を禁止すると、海外貿易ができなくなる」
 ということで、金儲けの最大の災害となる。
 それと、
「キリスト教の教え」
 とを天秤にかけ、
「ギリギリのところで、その問題を考えていたことであろう」
 というのが、問題だったのだ。
 宗教というのは、どうしても、
「来世で」
 あるいは、
「あの世で、幸せになれる」
 という発想である。
 だから、
「この世でいい行動をとっていれば」
 という条件でということである。
 これは、
「クモの糸」
 のような、
「天国と地獄」
 という発想と同じことであろう。
 ただ、あの話は、辻褄の合わないことが多すぎる。やはり、発想として、
「生きている時代が違う」
 ということになるのだろうか。
 とにかく宗教は、一言でいえば、
「来世に救いを求める」
 といってもいいだろう。
 だから、この世で答えが見つかるわけもなく、
「この世を犠牲にする」
 という発想になるのだ。
 しかし、もし、生まれ変わって来世になった場合、どうなるというのだ?
 そもそも、来世という発想がいる人が本当にいるのだろうか?
 というのは、
「前世の記憶のある人が、どこにいるというのか?」
 ということである。
 つまりは、
「生まれ変わって来世になったとして、前世の記憶がないわけだから、生まれ変わって幸せになれたとして、それを本人が自覚できるわけではない」
 ということだ。
 要するに、
「自分が誰の来世か分からない。そして、自分の前世が誰だったのか分からない」
 ということであり、いくらこの世でいいことをして、来世で幸せになったとして、それを誰が証明してくれるというのだろうか?
 宗教の教えで、
「天国で神や仏になれる人間なんて、ほぼいない」
 という状態であれば、せめて、この世でいいことをした報いがあるとすれば、
「地獄に行かずに済む」
 あるいは、
「人間に生まれ変われる」
 というくらいのことである。
 もし、生まれ変わるのではなく、あの世にいると考えた時。
「天国にもいけず、地獄にいくわけではない」
 となると、
「じゃあ、一体、どこに行くのだろう?」
 ということになる。
「あの世で、生まれ変わることもできず、天国にもいけず、暗い世界に、永遠に閉じ込められる」
 ということになるのか?
 そんなことを考えると、
「地獄と何が違うのだ?」
 ということになるだろう。
 また、
「人間に生まれ変われる」
 ということになったとしよう。
 こちらも、
「人間に生まれ変わって、幸せなのか?」
 と考えたとしよう。
 結局、誰に生まれ変われるのかどうか分からない。
 ひょっとして、前世よりも、もっとひどい状態で生まれてくるかも知れない。
 さらに、
「生まれてきた時代が、戦争中の国で生まれるかも知れないし、独裁国家で生まれ、自由も何もなく、さらには、食べるものもない」
 という時代に生まれてくるかも知れない。
「独裁者の身の上に生まれてきて、将来は、国王への道が確定している家に生まれてくるかも知れないが、それが幸せだといえるのだろうか?」
 最初から道は決まっていて、自由も何もない。
 しかも、実際に独裁者となった場合、
「時代が急変し、クーデターが起こったりすれば、処刑されてしまう」
 という運命が待っているといってもいいだろう。
 人間というのは、生まれてくる自由はないのだ。
「誰から生まれてくるか?」
「どの時代に生まれてくるか?」
 など、要するに、
「人間は生まれながらに、不平等なのだ」
 ということである。
 よく、自由というものを振りかざす発想をする人間が、
「人間は生まれながらに平等だ」
 などというやつがいるが、
 そんなものはまやかしであり、現実ではありえないことだ。
 それこそ、
「気休め」
 であり、
「宗教による洗脳だ」
 といってもいいだろう。
 だから、
「人間に生まれてきたから、幸せだ」
 などとは決して言えないだろう。
「じゃあ、動物に生まれた方がよかった」
 というのか?
 ということであるが、これも、ハッキリと、
「人間に生まれてくるのとどちらがいいのか?」
 ということ比較はできない気がする。
 確かに、動物の世界では、
「弱肉強食」
作品名:お教とお香の覚醒 作家名:森本晃次