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お教とお香の覚醒

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 というものを、見たことがあるが、そんな世界でもがき苦しむというのだ。
「血の池地獄」
 であったり、
「針の山地獄」
 と呼ばれるところに鬼がいて、鬼に支配される形であった。
 そんな地獄絵図だけではなく、もう一つの考え方として、
「生まれ変わることができる」
 というものであった。
 ただし、生まれ変われるものというのは、人間ではない。どの生物なのか分からないが、どれかの生物に生まれ変わる」
 ということだ。
 しかし、そうなると、基本的に、
「自然の摂理の中」
 ということで、
「弱肉強食」
 というものの餌食になるということだ。
 しかし、もっといえば、
「人間に生まれ変わったからといって、弱肉強食から逃れられない」
 というわけではない。
 というのも、
「人間ほど、残酷で、ひどいものはない」
 といえるのではないだろうか。
 というのも、
「人間という動物だけは、自分の私利私欲のために、平気で人を殺す」
 というのだ。
 他の動物は、そんなことはない、なぜなら、
「私利私欲」
 というものがないからだ。
 つまり、感情というものがあるわけではなく、
「本能に支配されている」
 といってもいいだろう。
 人間というものは、意識という、他の動物にはないものがあるが、その分、動物には、
「発達した本能」
 というものがある。
 人間も、動物の一種なので、本能というものはあるが、それにもまして、他の動物にはない、
「意識」
 というものがあることで、
「覚醒」
 もするし、頭で理屈を考えて判断するという
「意識の方の覚醒」
 も行われるということになるだろう。
 しかし、人間が、
「動物として生まれ変われる」
 ということになると、その命は、人間ではなく、動物のものということになる。
 ということになると、人間として生まれ変われるべき人間が、どんどん少なくなっていくということになるが、実際に、
「人口が減るどころか、増え続けている」
 ということになる。
 だとすると、
「動物に生まれ変わる」
 という発想は、若干弱いのではないか?
 と考えられるが、それ以上に、
「人間の命に限りがある」
 という発想も怪しいのではないか?
 と思うのだった。
 そこで一つの仮説として、
「死後の世界などというものは、本当はないのではないか?」
 という考えである。
 宗教というものが、
「人間に都合のいい考え方」
 というのを行うと、このような発想になるということであった。
 つまり、人間は、
「自己覚醒ができる」
 という発想でもある。
 そうなると、
「神というものの存在」
 というのも、怪しいのではないか?
 と思えてくるわけだが、そこまで行くと、飛躍しすぎではないかと思うのだが、
 そもそも、、
「神の存在」
 というのは、過去の人間が、その考えを、書物にしたり、口伝で伝えたり、宗教のような形にして、時代から時代に受け継いできたものではないかと考えるのであった。
 神の存在」
 というのは、宗教的な要素が満載な考え方である。
 まずは、
「聖書」
 から、
「人間を作った神」
 という発想。
「ギリシャ神話」
 でも、
「オリンポスの十二神」
 というものがいるではないか。
 日本においても、各神社に神様というものがいて、さらに、日本という国は、神様からの子孫として、数千年の歴史がある、
「天皇家」
 という、万世一系の皇族が続いてきているのだ。
 一時期、政府や軍による、
「統治手段」
 として、
「天皇の神格化」
 が行われた時代があったが、ほとんどの人間が、「疑うことなく信じていた」
 というのも、すごいものだといえるのではないだろうか。
 いくら宗教が違っているといっても、古代から脈々と続く考え方に、
「神という、共通の存在が、この世の中に君臨している」
 といってもいいだろう。
 そういう意味で、
「宗教は元々一つであり、その宗派が分かれたことで、全世界に無数にある宗教画生まれた」
 といってもいいだろう。
「ユダヤ教とキリスト教」
「仏教とヒンズー教」
 と言ったようなものがそうだともいえるだろう。
 日本でも、元々、一つの仏教が、宗派というものに分かれて、
「浄土宗」
「日蓮宗」
 などというものに分かれたといっていいだろう。
 特に日本では、鎌倉時代などでは、
「今まで信じていた宗教があてにならない」
 ということで、他の宗派がどんどん出てくる。
 それは致し方のないことなのかも知れないが、それが宗教というものであり、特に、
「日蓮宗」
 などは、他の宗教に対しての敵対心が強いという。
 確かに、宗教を信じていても、
「坊主のいっているような幸せが訪れるわけではない。それどころか、領主に搾取されてばかりではないか」
 と、考えると、他の宗派が、自然に出てきても、それは、無理もないことだといっても過言ではないだろう。
 しかも、
「今、信仰していれば、死後の世界で幸せになれる」
 などといって、
「死ななければ答えがでない」
 という、
「曖昧な教え」
 であり、そんな、まるで、
「欺瞞でしかないような教え」
 をまともに信じているのだから、それだけ、
「宗教というものの影響力が強い」
 ということなのか、それとも、
「宗教に頼らなければいけないほど、この世は地獄だ」
 ということになるのだろうか。
 きっと、
「後者なのだろう」
 と思う。
 時代によっては、
「キリスト教というものが入ってきた時、どんどん、キリスト教の信者が、増えていったではないか」
 という。
 ペリー来航後に鎖国を解いた時、あれだけ、
「尊王攘夷」
 といって、攘夷運動が激しかったではないか。
 確かにそれまで鎖国政策をしていたから、そこまで、外国を恐れていたのだろうが、キリスト教だって、初めて入ってきて、
「海のものとも山の者とも分からない」
 というものだったはずなのに、ほとんど見たこともないような外国人宣教師の言葉に乗せられ、
「キリスト教信者」
 というものが増えていった。
 それは、アジアのどこの国も同じだったことから、
「それだけ、
「キリスト教の教え」
 というのが、すごいものだったということなのだろうが、裏を返せば、それだけ、領主の搾取がすごく。そうでもしなければ、領主が統治できなかったということになるのであろう。
 それを思うと、
「キリスト教というものが、発展していったのも分からなくもない」
 といえる。
 しかし、そのキリスト教の教えというのは、
「統治する側にとっては、これほど厄介なものはない」
 なぜなら、
「人間は、神の下で平等だ」
 ということになると、統治というものを、根本から否定しているということになる。
 なぜなら、
「庶民は、神のいうことしか聞かなくなる」
 ということであり、
「領主や、幕府、朝廷のいうことは聞かない」
 ということで、統治が根本的なところで崩れることになる。
 徳に当時の封建制度というのは、
「土地を中心とした主従関係」
 というものが、根本にあって、
作品名:お教とお香の覚醒 作家名:森本晃次