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お教とお香の覚醒

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 確かに、事実というものは一つであり、真実は、その事実というものが、重なって出来上がったものを真実というのだとすれば、その事実というものが、
「一歩違っていれば、どちらに転んだか、分からない」
 と言われるように、そこには、
「運命」
 というものがあって、その
「いたずら」
 によって、発揮される力というものが、真実ではないか?
 と考えれば、
「本当に真実というものが一つだというのであれば、運命というものはないわけであって、可能性も一つだといってもいいということになる」
 もっといえば、
「真実が一つだということになれば、運命も存在しないことになり、パラレルワールドもありえない」
 ということになると、
「事実の重なりが真実だ」
 という根本的な発想がなくなることになり、時間という概念すら、消えてしまいそうに感じるのだ。
 だから、
「真実というものがなるべく一つだ」
 ということになるような世界を作りたいでのであれば、この世なら、欺瞞やウソをなくさなければならない。
「ウソというものや、欺瞞がなくなれば、真実は本当に一つなのかも知れない」
 といえるだろう。
 そんな時代において、
「昔のことを覚えている」
 といっても、
「本当に古いことであるのは間違いない」
 と思うのだが、明らかに、大人になってからのことなので、そんなに古いわけはない。
 と思うのだ。

                 来世の記憶

 ただ、よく思い出してみると、自分が子供の頃に想像していた大人というのもは、
「今のような大人だったのだろうか?」
 ということであった。
 それは確かに、
「想像した大人」
 と違うというのは当たり前のことなのだが、
「子供の頃が子供の頃で、自分が大人になってからの意識のようなものが、まるで、予知夢でも見たかのように、想像できる」
 ということだったのだ。
 それがどういうことなのかというと、
「子供の頃に見た大人の記憶は、きっと夢なのだ」
 ということである。
 つまりは、将来に対しての、
「起きてみる夢」
 というわけではなく、
「過去に感じたことが潜在意識として記憶されていたものとして見る夢」
 という、
「普段に寝ていて見る夢だ」
 ということである。
 だから、
「過去に経験したことでなければ、見ることのできない夢」
 ということで、
「大人になったわけがないのに」
 と考えてみると、その夢というのが
「自分の潜在意識の中にあったことだ」
 と思うと、
「遺伝子が見せたのか?」
 と感じ。そうなると、
「家族が見た夢の記憶が遺伝子が入っていて。ご先祖様の、近い分の記憶が、潜在意識として、夢に映像化されて出てきた」
 ということになるのだろう。
 と思うのだった。
 しかし、それだけではなく、もう一つ感じることがあった。
 それが、
「前世に思いを馳せた」
 ということであり、前世は、自分の遺伝子に関係があるわけではなく、自分が生まれる前の意識が乗り移ったのかも知れない。
 と思うのだ。
 そう考えると、
「前世と、遺伝子というものは、基本的には、関係ないのではないか?」
 と思えた。
 すると、
「遺伝子というものに、記憶は関係なく、自分が本能として感じることが、遺伝子として、血のつながりとして、脈々と受け継がれるものだ」
 といってもいいだろう。
 しかし、
「前世」
 というものは、遺伝子に関係のないもので、
「記憶があったとすれば、潜在意識ではない意識の方に含まれていなのではないだろうか?」
 と感じるのだ。
「潜在意識ではない意識は、記憶とは違うものなのか?」
 それとも、意識と記憶の、ちょうど中間が、その
「潜在意識ではない意識がかかわっているのだろうか?」
 と感じるのであった。
 記憶と意識を考えていると、
「将来において、いつまで、自分の記憶が維持されているのだろうか?」
 ということを考えてしまう。
 記憶というのは、
「意識と一緒になって思い出すから、覚醒し、過去の記憶ということになる」
 といってもいいだろう。
 だとすると、
「思い出そうとしても思い出せない」
 あるいは、
「思い出したとしても、曖昧なものでしかない」
 ということで、その記憶が本当に間違いないものなのかどうか、自分でもハッキリと分からないことが多かったりする。
 それが、
「デジャブ」
 であったりするのだろう。
 それを考えると、
「デジャブというものは、ひょっとすると、前世から続いているものを見ているだけではないか?」
 ということを考えると、
「なぜ、曖昧にしか思い出せないのか?」
 ということになる。
 それを思った時、
「記憶の覚醒」
 というのは、意識として記憶が覚醒するだけではなく、まわりの環境が影響してきているのではないか?
 という考えにも至るのであった。
 というのも、
「線瀬の記憶は、時代が違っているからではないか?」
 と考えるからだ。
 少なくとも、前世というのは、
「自分が前世で死んでから、あの世で生まれ変わりを待って、そして、満を持しての生まれからりではないか?」
 と思っているからだ。
「前世の記憶」
 というものはない。
 まったく新しい命として生まれてくると思っているが、実際には、
「命のリサイクル」
 なのかも知れない。
 つまりは、
「命というものには限りがあり。死んでから生まれ変わるところまでは、死後の世界にいるわけだが、いずれは、この世に生まれ変わる」
 ということになるという考えである。
 しかし、宗教的な発想は違う。
 基本的に、
「生まれ変わり」
 という発想は、どの宗教にも変わりはないだろうが、
「人間として生まれ変わりには、生まれ変われるための、条件というものがある」
 ということである。
 つまりは、
「生まれ変わるためには、この
「条件に沿って、生まれ変わることになる」
 という教えであるが、ここから先が、宗教によって違っているということであろう。
「輪廻転生」
 という発想は、言葉や若干の意識の違いこそあれ、基本的には変わらないと思える。
 その中で最初に聞いた考え方というのが、普通は、人間の記憶として鮮明に残っているというもので、坂巻助手も同じだった。
「輪廻手症」
 というのは、
「人間は死んだら生まれ変わる」
 という発想で、
「生まれ変わる時、その死後の世界のランクで、その先が決まってくるという考えであった」
 というのは、まず、
「すべての人間が人間に生まれ変わる」
 というわけではなく、中には、
「神として君臨する」
 ということで、
「天界に召される」
 という人もいる。
 もちろん、釈迦などのような悟りを開いたような人だけなのだが、そんな人たちは、いわゆる、天国というところで、幸せに暮らせるということであろう。
 そして、人間に生まれ変われない人間として、死後の世界においての裁判において、
「地獄行き」
 ということになった人である。
 こちらは、宗教によって違うのだろうが、
「地獄にずっといなければならない」
 というもので、よくいわれる、
「地獄絵図」
作品名:お教とお香の覚醒 作家名:森本晃次