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お教とお香の覚醒

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 ということを考えると、お釈迦様がその男を助けようとしたのは、衝動的な考えで、本当であれば、もっとちゃんとリサーチする必要があるということで、このお話は、
「お釈迦様の勇み足」
 という話だったということで、肩をつけるわけにはいかないのだろうか?
 と考えることもできるだろう。
 ただ、この話が、
「奥深いものだ」
 ということは分かっているので、もっと深く見ないといけないということになるのであろう。
「クモの糸」
 という話であるが、これは、もう一つ少し気になっているところとして、
「普通は、極悪人なのだが、何かの動物を助けた」
 ということだけで、
「なぜ、天国に行けるのだろうか?」
 ということである。
 ただ、偶然、
「お釈迦様がその光景を見つけたということで、その男を助けようと思ったのだ」
 ということなのであれば、少し、疑問が浮かぶのだ。
 確かに、
「その男のすべてを調べたうえで、それで、分かったことであるとすれば、百歩譲って分からなくもない」
 とはいうが、
「一人の人間の一生を、すべて見てこようとすると、その男の生きてきた時間をすべて見なければいけない」
 ということは、その男が、20歳だったとすれば、
「休憩を含めずに、20年という歳月を見続けることができるのか?」
 ということであり、
「お釈迦様だからできる」
 と言われてしまうと、逆らえないのだが、それではあまりにも都合のいいことではないだろうか?」
 しかも、その行為が、
「一つだけいいこと」
 というが、お釈迦様に、人間社会の、善悪が分かるということであろうか?
 少なくとも、善悪を裁くことができる権利を持っているのは、
「閻魔大王」
 ではないか。
 閻魔大王がその権利を持っていて、それこそ、
「生殺与奪の権利」
 ということで、その男が、
「悪だ」
 ということで裁いて、地獄に落としたということである。
 ということであるならば、
「天国と地獄」
 というところの力関係は分からないが、今回のお釈迦様の行動というのは、
「閻魔大王という存在を、真向から否定する」
 といってもいい、
「越権行為だ」
 といえるのではないだろうか?
 しかも、一度は助けようとしたくせに、人間世界では、
「一法性阻却の事由」
 の一つである、
「緊急避難」
 として、罪に問われないということなのに、お釈迦様は、容赦なく、男を元の地獄に叩き落したわけだ。
 この行為は、
「一度持ち上げておいて、わざと叩き落した」
 ということになるのではないか?
 この話は、中学生の頃に見たので、
「お釈迦様のような聖人君子の判断なのだから、当たり前だ」
 と思い込まされてしまったことで、大人になって考えると、
「これは洗脳ではないか?」
 とも考えるのであった。
 そういう意味で、子供の頃のおとぎ話などの、教育上の物語というのは、
「洗脳」
 であったり、政治的な、
「プロパガンダ」
 ではないか?
 といってもいいのではないだろうか?
 もちろん、話としては、
「架空の話」
 であるから、賛否両論あってもいいのだろうが、一つ言えることは、
「閻魔大王に対しての。越権行為であり、尊厳を犯した」
 ということで、いくらお釈迦様だといっても、いいころだとは言えない。
 もっと、正直に言ってしまえば、
「結局、お釈迦様の見る目がなかったということをごまかすために、地獄に再度叩き落した」
 ということであり、本来であれば、お釈迦様の行為は、もし、成功して天国に引き上げていたとすれば、
「逃亡ほう助」
 だといえるだろう。
 何といっても、
「地獄の方には、何も言わずに、自分で勝手に判断し、あの男を助けてやろう」
 と考えたことが招いたという。いってみれば、
「迷惑行為」
 であり、しかも悪いことに、そのために、
「まわりを巻き込んだ」
 ということである。
 これを正しいといっていいものなのだろうか?
 お釈迦様が、いかに偉いのか分からないのと、
「現実社会を中心に話しているから、偏見のような目で見てしまっている」
 といってしまえば、それまでなのだろう。
 しかし、あの話を、
「いい話だ」
 ということで見ているとすれば、果たして、そこに、
「思い込みや偏見がない」
 といってもいいのではないか?
「お釈迦様は天国の主だから、えらいんだ」
 そして、
「閻魔大王は地獄の主だから、恐ろしくて、悪なんだ」
 と考えている人がいるとすれば、それこそ、大きな偏見ではないかと思うのだった。
 だとすれば、
「警察署に勤めているのは、皆、聖人君子で、刑務所などで勤務している人間が、まるで地獄の番人のような人なのか?」
 ということである。
 このお話を、正面から見ると、
「地獄の番人は、皆鬼だということを思いこまされているので、刑務所の人間が、皆鬼だといっているようなものだ」
 といえるのではないだろうか。
 これこそ、
「職業だけで人間を見ている」
 ということであり、
「善悪を裁く閻魔大王に、迫力があって、威圧感があるから、悪ではないか?」
 と思うとすれば、この世での、
「反社会主義勢力のドン」
 と呼ばれる人に対しての偏見が多いということになるのではないか?
 それを思うと、閻魔大王や、お釈迦様というものは、
「職業として見るべきで、それぞれの受け持った仕事をすることで、世の中が回っているのだ」
 と考えると、このお話に出てくる、お釈迦様の行為は、
「越権でしかない」
 ということだ。
 そもそも、話の作り方が、
「語り手がいて。その人にしゃべらせている」
 という感覚なので、明らかな、
「お釈迦様びいき」
 といってもいいだろう。
 そういう
「クモの糸」
 のような話をみていると、どこか気になるのだった
 それは、内容云々というよりも、その話を聞けば聞くほど、何か、
「思い出しそうで思い出せない」
 という感覚に陥るのであった。
 それこそ、
「デジャブ」
 というような感覚で、
「思い出せそうなことなんだけど、思い出せない」
 という感覚であった。
 普段であれば、
「夢で見たことだったのかな?」
 という感覚になるのだが、そういうわけではなかったのだ。
 というのも、
「夢というよりも、リアルな感覚があり、しかも、本当に、過去にあった出来事という感覚になるのだった」
 というのも、
「今の時代とは、違う世界」
 という意識であった。
 今の時代と違うとすれば、それは時代であるはずなのに、
「世界」
 と感じるということは、
「世界と時間というものを、同じ感覚で見ているということだろうか?」
 と感じるのだが、それが、どういうことなのか?
 ということを感じるのだとすると、それが、
「夢でもあり、リアルでもある」
 つまり、真実だと感じたのだ。
 よく、テレビ番組などで、
「真実は一つ」
 といっているが、あれを、分かっていて言っているのだとすれば、素晴らしいが、
「分からずに言っているのであれば、黙っていてほしい」
 と感じるのだ。
 というのは、
「真実は、事実ではない」
 ということである。
作品名:お教とお香の覚醒 作家名:森本晃次