お教とお香の覚醒
確かに。お互いに、意識することもなく、記憶も片方には曖昧で、片方には、そんなものあるわけはないということになるのだ。
それを考えると、
「タイムパラドックス」
というものも、曖昧で、信憑性がないものだ、
ということで、さらには、
「ある誰かに対してだけ、都合よくできているものではないか」
といえるだろう。
特に、時間というのは、
「無限の可能性」
というものと密接に結びついていて。
「それだけの無限大を考え萎えればいけないのであれば、それこそ、時間というものを、皆に平等だ」
ということにしてしまうと、それこそ、矛盾だらけになってしまうだろう。
そうなると、
「どこかで歯止めをきかせる」
あるいは、
「なるべく、平等にする」
ということを考えると、
「タイムパラドックス自体を、矛盾のないという形で、逃げ道としての、都合のよさというものである必要があるのではないだろうか?」
とそんなことを考えていると、
「その解決法としてのクッションとして、タイムリープというものが存在していると考えるのは、これこそ、都合のよさということになるのではないだろうか?」
さて、そこから生まれてくる考え方として、
「タイムパラドックス」
というのを、
「ドッペルゲンガーと切り離す」
という考え方から見ると、
「タイムリープ:
というものがその解決法になるという理屈は、一応、正当性があるように思うのだった。
そのため、
「タイムリープ」
というものには、少々の、甘い仕掛けのような考え方を持たせる必要があるのではないか?
つまり、
「少々の矛盾には目をつぶる」
ということである。
そうじゃないと、そもそも、最初から、
「タイムリープというのは、矛盾だらけだ」
ということになってしまうのではないかと感じるのであった。
「タイムリープ」
というのが、今の時代において、小説で書かれるようになったのは、
「タイムリープというものを主題にした、SF小説」
というよりも、
「タイムリープというのは、あくまでも、手段として使うだけで、ストーリー性を生かさなければ、面白いものにはならない」
という発想である、
だから、恋愛ものであったり、青春小説の中で、
「バリエーションを組み立てる」
ということで考えられる、一つのエッセンスとしての、
「隠し味」
というものがきいているのが、
「タイムリープだ」
という考え方である。
もっと言えば、このタイムリープというものは、
「自分というものに入り込んでしまうのだ」
ということであるので、
「時間に関係のないところでの、矛盾」
というものが考えられるようになるといえるのではないだろうか。
というのは、一つの考え方として、
「タイムリープ」
によって、
「その時代にいた自分は、どうなってしまうのだ?」
ということである。
「過去から来た自分が入り込むことで、魂として、さまようことになるのか?」
あるいは、
「そのまま入り込んで、一人の中に、二重の性格が生まれることになるのか?」
ということである。
前者であれば、これは少し考えにくいだろう。
その魂がさまようということは、宗教的に考えれば、ありえないことであり、許されない。
普通に考えても許されないと思うのは、
「人間というものが、無意識に、誰もが宗教を、心のどこかでも信じている」
ということになるのだろう。
そんなことを考えていると、
「やはり、後者の方が信憑性はある」
と感じるのであるし、しかも、
「ここでもう一つ、別の理屈が証明できるのではないか?」
ということであった。
というのが、
「多重人格」
というものだ。
二重人格というものであれば、ほとんどの人が、
「自分は二重人格ではないか?」
と感じているのではないかと思うほど、結構な確率で、人の心に潜んでいるといってもいいだろう。
「二重人格」
というものにも種類があるようで。それだけ、皆が自覚するのも分からなくもないというものだ。
小説で、
「二重人格」
として有名な、
「ジキル博士とハイド氏」
という話もそうである。
この場合は、薬によって覚醒させられたものだということであるが、さすがにここまでひどい二重人格というのは、そう簡単にいるわけではないだろう。
特に、
「ハイド氏」
というのは、普段から、
「ジキル博士」
の陰に隠れて。表に出てくることはない。
しかし、ひとたび出てきてしまうと、その性格のきつさというものがどういうことかというのは、
「ハイド氏にしか分からない」
ということだ。
あまりにも性格がかけ離れているから、お互いに知ることがなかったということかも知れない。
薬の覚醒によって、ハイド氏が表に出てきて、いわゆる、
「悪の限りを尽くす」
といってもいいかも知れない。
この二人ほどではないが、
「まったく正反対の性格」
というのが、あるのは普通だろう。
小説として、描くには、この、
「ジキルとハイド」
くらいに、両極端で、あとから出てきた方が、犯罪だろうがなんだろうが、犯すということを考えると、その深みというものが分かってくるというものだ。
だが、
「二重人格」
という問題は、現代でもないわけではない。
裏に潜んだ性格が、ひどい人間だ。
ということが当たり前のようになっている。
もっとも、逆に、普段は表に出ているのがひどい性格で、裏には、
「虫一つ殺せない」
というやつが潜んでいるのかも知れない。
そういえば、前述の、
「芥川龍之介」
の小説に。
「クモの糸」
というものがあるが、
これは、
「一人の男が、どうしようのないワルだということで、地獄で苦しんでいたが、お釈迦様が、苦しんでいる中のその男の過去を見た時、動物を助けたというエピソードから、天国に誘おうと、クモの糸を垂らした時、男は、自分が助かろうとして、必死に上っていくが、よく見ると、後ろから他の人たちもどんどん上ってくるではないか、男は助かりたい一心で、自分の後ろを糸を切った。しかし、それを見たお釈迦様が、この男の本性を見たことで、その男の糸を切り、地獄に叩き落した」
という話であった。
よくよく考えると、この話も、おかしなところが多い。
「どうして、お釈迦様が、この男だけを助けようと思ったのか?」
ということ。
そして何よりも、大きな問題として、
「現在の法律に照らし合わせて考えた時。違法性阻却の事由ということで、緊急避難というものがある」
ということであるが、それは、
「救命ボートで店員オーバーで、誰かがくれば、皆が死んでしまうのが分かっている場合、あとから来た人を見殺しにしても、それは罪にならない」
というものであった。
しかし、お釈迦様は、
「自分で助けようとしたくせに、いくら失望したからといって、いきなり糸を切るというのは、理不尽ではないか?」
と思うのは、ひどいことであろうか>
それを考えると、
「二重人格性で、悪の部分が少しでもあると、天国には上げられない」
という戒めのようなものがあるのではないか?