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お教とお香の覚醒

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「それがどれほど昔のことなのか分からないが、その時の行動を隅々まで覚えているなど、できることなのだろうか?」
 ということである。
 下手をすれば、数分前のことを覚えているか?
 というと覚えていないだろう。
 しかも、今から思えば、
「あの時が、人生のターニングポイントだったのではないか?」
 と思ったとしても、あの瞬間はどうだったのだろう?
 後になって、
「あの時がターニングポイントだったんだ」
 ということが分かるのであって、その時に分かっているのであれば、その時点で、何とかしようとしていたはずだ。
 しかも、その時の行動が正しかったのかどうか、少なからずの時間が経っていないと、その答えが分かるはずもない。
 時間の経過というのは、
「必ず、答えは一番最後にあるもので、しかも、それが、その時の答えだったということに、いつも気づくとは限らない」
 というものだ。
 気づいたとしても、「それが本当に答えだったということが、自分の中であっても、確定するということがいえるのは、いつのことであろうか。
 それを考えると、
「人生などというものは、何が正解だったのかというのは、死ななければ分からない」
 といっても過言ではないかも知れない。
 そんなことを考えていると、
「あの時が、ターニングポイントだった」
 というのが、思い浮かぶだけすごいだろう。
 一生懸命に考えても、本当にそこにたどり着けるかというだけで、大変な労力ではないだろうか。
 しかも、
「それが正しかったんだ」
 という証明に、本当になるのかどうか、怪しいものである。
 そもそも、人間は、
「いつ死ぬか?」
 ということが分かっていない。
 だから、禅問答の言い方であるが、
「死ぬまで生きる」
 という言い方しかないのだった。
 この言葉は、一見矛盾しているようで、実に的を得ている。
 この世の中では、
「的を得ているようで、実は、そうでもない」
 というのが多いが、このように、
「的外れに見えるが、実は的を得ている」
 という方が、よほどしっかりと分かっていることであって、
「それだけ、過去に戻るといっても、どこに戻るのか?」
 ということを分かることは難しいのかも知れない。
 本当に、
「この時がターニングポイントだった」
 ということが分かったとしても、
「その時代に戻ったとしても、どのように対応していいのか?」
 ということが分かるのだろうか。
 何といっても、その間が離れていればいいるほど、たくさんの経験をしてきて、時代も進んでいるのだ。
 まだ、レコードやカセットテープが主流で、CDなどもない時代で、ビデオ全盛期だったとすれば、まず頭をその時代に戻す必要がある。
 たとえば、未来で自分が結婚していて、その人と、ちょうどこの時代に出会うのだったということを思いだしてみると、
「どうして、俺のターニングポイントがこの時代だったのか?」
 ということもおぼろげに分かってくる。
 そもそも、タイムリープをした場合。
「こちらも何かの制限や制約がある」
 と考えた場合、
「どうして、この時代に来たのか?」
 という肝心な記憶が抜け落ちているというのは、十分に考えられる。
「ここから自分で、見つけるのだ」
 ということになると、
「そもそも、自分の中の歴史のターニングポイントだ」
 ということが分かっているとしても、戻ってくれば、そのターニングポイントが分からなくなっている。
 一種の、
「記憶喪失の状態だ」
 ということであろう。
 そうすることで、自分が、タイムリープしたという事実を忘れてしまうということも考えられないだろうか、
「この時に、一つの現象の理屈を立てることができる」
 と考える。
 その現象が何なのかということを考えると、
「デジャブではないか?」
 と思うのだ。
「初めて行ったり見たりしたはずなのに、それがいつだったのかということを忘れてしまっている」
 ということだ。
 普通なら、過去のことであれば、
「初めていったはずなのに」
 ということを感じることはそうないだろう。
 しかし、それが未来であれば、記憶にないのは当たり前、時系列からいうと、辻褄が合わないからだ。
 しかし、意識だけをもって過去に行き、自分に憑依するのだから、記憶にないというのも当たり前のことで、意識だけが、
「見たことがある」
 ということで、感じるのであった。
 そもそも、意識が最初にきて、記憶がよみがえってくるということになるのであれば、問題ないのだ。
 それが過去のことだということであれば、理屈に合うことであり、時系列としての矛盾から、
「意識だけをもって」
 ということで、記憶がないのが、
「タイムリープ」
 だということになれば、
「自分たちは、無意識のうちに、タイムリープをしたことがあるのかも知れない」
 と考えるのは、突飛な発想であろうか?
 ただそう思うと、
「デジャブという現象も、説明がつく」
 と考えられるのではないだろうか?
 それを思うと、
「タイムリープ」
 というものは、
「いろいろなことの、矛盾や問題点を解決するために、考えられたものではないか?」
 という考え方である。
 そもそもの
「タイムリープが解決できる」
 という発想は、
「タイムパラドックス」
 であった。
 そして、
「そのタイムパラドックスが原因ではないか?」
 と言われることである。
「ドッペルゲンガー」
 というものの解決策として、まるで、
「三段論法」
 という考え方のように、扱えることとして、
「タイムリープがあるのではないか?」
 と考えるのは、無理もないことだといえるだろう。
 つまりは、
「同一空間の同一時間。つまり、同一次元で、まったく同じ人間が、それぞれに存在している」
 というのが、いわゆるドッペルゲンガーである。
 これは、
「タイムスリップ」
 というものを可能だとしてしまうと、人間が、過去に行った瞬間に、考えられる問題だということになる。
 もちろん、これが、5分前くらいだということであれば、
「まったく同じ人間」
 ということで、どちらも意識することだろう。
 しかし、これが、数十年前、つまりは、成人した男が、自分の子供の頃の時代に戻ったとして、そこで、もし、
「出会った」
 ということになれば、
「相手が自分だということは、まず分からないだろうが、大人の自分なら、分かるかも知れない」
 ということになる。
「分かるかも知れない」
 というのは、何といっても自分である。
 自分というものは、写真を撮ったり、鏡に映すなどの媒体を通してしか分からないので、子供の頃に、自分の顔を意識していたということは、普通にないだろう。
 特に子供であればなおさらのことだ。
 だからこそ、自分の姿を分かるはずもないといえるだろう。
 そう思うので、普通であれば、
「出会ったとしても、意識することはないはずだ」
 ということになるだろう。
 だとすると、この場合には、
「タイムパラドックス」
 が起こるということはない。
 と思えばいいのだろうか?
作品名:お教とお香の覚醒 作家名:森本晃次