小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

対比する発想

INDEX|9ページ/16ページ|

次のページ前のページ
 

「コピーすることで、記憶されたものは、永遠に、受け継がれていく」
 といってもいいだろう。
 それが、人間でいうところの、
「遺伝子」
 というものに近いものであり、
「二世、三世」
 と人口知能がコピーされ、記憶が受け継がれていくことで、人間の遺伝子よりも確実で、曖昧なものではないものが、受け継がれていくことになるのだろう。
 それを考えると、
「ロボット開発」
 というのは、
「神への冒涜だ」
 という人もいるだろうが、
「人間の手によって、受け継がれるものがある」
 ということで、記憶などの、遺伝子的な、
「ロボットによるノウハウ」
 というものであれば、それは、無理もないことだ」
 といえるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、世の中において、
「寿命」
 と
「因果」
 というものが渦巻いている環境が、
「タイムトラベルではないか?」
 と考えると、
「タイムマシン」
 というものを考えていると、いつの間にか、
「フレーム問題の解決案」
 という、
「ロボット開発」
 という、それぞれに、
「人類の近未来において、開発されているべきことであるが、実際には、そのハードルが高すぎる」
 と、奇しくも言われているものの代表だというのは、
「皮肉なことではないだろうか?」
 といえるのではないか?
 寿命を減らす、
「タイムトラベル」
 というものを、いかに減らさずに済むか?
 というのが、大きなテーマではあるが、その前に解決しておかなければいけない問題というのが、
「そもそもの、その人の寿命がいくつだったのか?」
 ということを知る必要があるということだ。
 ただ、ここまでくると、大きな、いや、
「そもそもの問題」
 ということが頭をもたげているのだが、
「寿命というものを知る必要が、どこにあるというのか?」
 というところに戻ってくるのだ。
 確かに、
「タイムトラベル」
 というものを行うと、寿命が極端に減るということが分かっているのだとすれば、
「タイムトラベルというものは、厳禁だ」
 ということになるだろう。
 ただ、
「タイムトラベルをしても、寿命が減らない開発をしていけばいいのではないか?」
 ということで、その開発ができたところで、タイムトラベルを解禁させればいいということになるのだろうが、それでいいのだろうか?
 少なくとも、開発後に、
「臨床試験」
 というものが待っている。
 成功したのであれば、問題ないが、それが失敗作で、しかも、余計に寿命を続けるものだとすれば、これは、実験すらできなくなってしまう。
 実験ができないとなると、
「開発をしても仕方がない」
 ということになり、
「タイムトラベルというのは、理論的に不可能なものだ」
 ということになるのだろうが、それを、どのような形で、プレス発表をするかということだ。
 説明がつかないのであれば、
「発表を見送る」
 という手段もあることだろう。
 ただ、一つ考えられることとしては、
「精神よりも、肉体の方が先に時間が進む」
 という考え方であった。
 これであれば、相対性理論においても、説明がつくかも知れない。
「光速で進むということは、身体が時間についてこれないということになるので、先に進んだ身体、つまりは、体内時計というものは、光速というものに耐えられるだけの肉体を持つには、身体が時間に追いつく必要があるのではないか?」
 という考え方であった。
 逆に、精神の方は、ゆっくり進む方が、理解をしようとする気持ちを落ち着かせるので都合がいい。
 そう考えると、
「精神と肉体の進む期間というものは、それぞれに進む時間で、変わってくる」
 という発想だ。
 だから、それぞれの時間には、それぞれの自分がいるのだが、しかも、時間というのは、
「万人に共通のものだ」
 と言われているが、本当にそうであろうか。
 それが微妙に違っているのであれば、それは、まるで宇宙に思いを馳せた時に感じる、
「マルチバース理論」
 に近いものがあるのではないか。
 時間というもののスピードによって、違う世界が広がっているというもpであれば、それこそ、
「無限の可能性」
 というものが、
「さらに無限に広がる」
 ということになるのではないだろうか?
 そんなことを考えると、
「なるほど。無限というのは、何で割っても、無限にしかならないわ」
 という、フレーム問題を、
「不可能だ」
 という考えにならしめた発想に繋がっていくのである。
 科学者は、それを、
「理屈で解釈しよう」
 とする。
 理屈で説明しないと、誰もわかってくれないということであるが、
「無限が、どこまでいっても無限である」
 というように、
「理屈を解明しても、次から次に謎が出てくるのであるから、完全ないたちごっこにしかならない」
 と言えるのではないだろうか?
「いたちごっこ」
 というのは、ある意味、
「悪いたとえ」
 に使われることが多い。
 特に、
「核開発競争」
 というような、
「一国が、開発に成功し、実験が成功すると、敵対する国も、さらに強力な兵器を作りあげる。すると、相手国もさらに強力なものを作る」
 ということになり、考え方として、
「もし、使ってしまうと、相手国を滅亡させることはできるが、同時に、自国も滅亡する」
 ということになるのだ。
 つまりは、
「核も抑止力」
 というもので、
「持っているだけで、使わなくとも、相手との均衡を保ち、バランスを保てるということでは、これ以上の抑止はない」
 と言われていた。
 以前、
「核の抑止力」
 について、
「密閉した籠の中に、二匹のサソリを入れたようなものだ」
 と表現していた人がいたが、まさにその通りであった。
 確かに、お互いに均衡が保てていて、計算通りにいけば、問題はないのかも知れないが、
「そんなに計算通りにいけば、世の中に戦争などというのはなくなるのではないだろうか?」
 という究極の理屈を立てている人がいた。
 確かに、その通りかも知れないが、実際に戦争が起こっている。中には、最初から、相手国への侵略目的というものもあっただろうが、
「やむを得ず」
 という戦争もあった。
 批判もあるだろうが、
「大日本帝国の起こした戦争」
 というのも、
「幕末からの歴史を時系列で勉強していれば、大東亜戦争がどういう戦争だったのかということはわかるというものだ」
 と言えるであろう。
 そのことを考えると、
「歴史というものが時系列で繋がっている:
 ということが分かるというものだ。
 そして、その中心としてあるのが、
「正確に刻まれる時間」
 ということであるが、これもおかしな話で、
「時間」
 という概念は、人間が、勝手に作ったのだ」
 と言えるのではないだろうか。
 というのも、
「確かに、月や太陽などの天体を見て、それと時間を組み合わせて、時間、季節」
 というものは作られている。
 その概念であったとしても、歴史や時代と、時間を結び付けるという発想は、
「あたかもおかしい、都合がいいものではないだろうか?」
 と言えるが、逆に、
「それでも、その理屈が合う」
作品名:対比する発想 作家名:森本晃次