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対比する発想

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 という単純計算になるのだろうが、もちろん、単純計算でいいのかどうか?
 という問題もあるのだろうが、それ以上に、
「回数と長さによって、まったく寿命の短縮というのが顕著である」
 ということになるのだとすれば、それこそ、
「タイムトラベルによる寿命の短縮」
 という理論を証明することはできないだろう。
 いや、この問題はそこではない。
 もっといえば、自分が見つけた寿命というのは、
「本当の寿命なのだろうか?」
 ということである。
 というのは、見つけた寿命というのが、
「タイムトラベルを重ねた結果だ」
 ということではないのだろうか?
 ということになると、本当はもっと長かったのかも知れない。
 それを自分が余計なことをして、寿命を減らしてしまったことで、出てきた答えを寿命としたのだとすれば、
「これほど、本末転倒なことはない」
 といえるだろう、
 言葉としてふさわしいこととして、
「因果応報」
 ということになるのではないだろうか?
 そもそも、
「寿命」
 という考え方の定義というのは、どういうものなのだろうか?
 一般的に言われていることとして、
「天寿というものがあり、神様から与えられた、全うすべき寿命があり、それ以上は何があっても、生きることができないもの」
 という理屈になるのだろうか。
 もっといえば、
「寿命というものが決まっていても、それ以上に、その人に偶発的に起こる、事故や災害、殺害などというものは、寿命に優先する」
 ということで、この事故などの、一種の、
「運命」
 と呼ばれるものも、天や神の、
「御心」
 によって決まるものだとすれば、
「そもそもの寿命というのは、どういうことだといえるのだろうか?」
 ということを考えてしまうのだった。
 つまり、
「寿命を見てきた」
 ということであるが、その寿命というのは、
「タイムトラベルを何度も経験した結果だ」
 ということで、その結果見る寿命は、
「自分にとっての途中経過だ」
 といえるであろう。
 さらに、
「このタイムトラベルというのは、自分のとっての運命」
 といえるのだろうか。
 ある意味、本当の寿命に、神がかかわる運命ではなく、人間が作ったタイムマシンによるものだとすれば、それは、運命ではない。
 ただ、
「ワームホール」
 と言われるようなものは、神が作ったものであろうから、そのタイムトラベルは、
「運命」
 といえるのではないだろうか?
 いや、待てよ?
「タイムトラベル」
 というものすべてが、寿命を短くするものだ」
 という物理的なことを考えるのであれば、それがワームホールというものの仕業であったとしても、寿命が縮むことになるだろう。
 それが、運命というものであるといってもいいのだろうか?
 確かに事故というものも運命で、
「突然迎える死」
 だということであれば、
「ワームホール」
 というのも、
「神が与えた悪しき運命だ」
 といえるのであろう。
 しかし、逆に、この
「ワームホール」
 というのは、神が作ったものではなく、人間が自然環境を破壊したり、自然に何かの力を加えることで、作り出した
「副産物」
 のようなものであるということになると、それはそれで、
「因果応報」
 ということになるだろう。
 ただ、それは、
「個人の運命による因果応報ではなく、人間というものの因果なのではないだろうか?」
 と考えられる。
 そう考えると、やはり、
「ワームホール」
 というのは、
「人間にとっての、悪夢でしかない」
 といってもいいのではないだろうか?
 そんな、
「タイムトラベル」
 によって生じた、
「寿命の短縮」
 それを
「因果応報だ」
 というのであれば、
「神が作った人間」
 が、勝手に寿命というのを、
「操作している」
 といってもいいだろう。

                 「寿命」と「因果」

「タイムトラベルが、寿命を削る」
 ということは、神が与えた人間に対しての試練なのかも知れない。
 神話の世界などでは、神によって、
「人間が持つことができるものは、制限されている」
 と言われている。
 ギリシャ神話の中に出てくる、
「パンドラの匣」
 という話では、神から、
「人間に与えてはいけない」
 と、ゼウスがいっていたものとして、
「火」
 というものがあった。
 人間に与えると、
「争いの種になる」
 ということであったが、そのことで、
「人間はたいそうな不便を強いられる」
 ということで、
「プロメテウスという神」
 が、人間に火を与えたという。
 これは、タブーなことであるのだが、人間が、
「想像はできるが、創造することができない」
 と言われる無数にありそうなそれらのものが、どれだけあるのか、それこそ、人間が無限にあるものから、限られたものを持っているということで、
「ロボットにはない」
 と言われる、
「フレーム問題の解決手段」
 というものが、そこに隠されているのかも知れない。
 なるほど、
「無限に存在している可能性から、正しい道を取捨選択できるのが、人間だ」
 というわけではなく。そもそものところで、限界が存在していて。その限界を意識していないことで、人間がm
「フレーム問題」
 というものを意識せずに、暮らしていけるということになるのだとすれば、そこにはやはり。
「神という、絶対的な存在が人間を支配している」
 という考えが生まれてきたとしても、それは無理のないことであろう。
「もし、人間がロボットのフレーム問題を解決できるとすれば、ロボットに与えてはいけないものが何であり、それを取り除いて人工知能を作ることができるか?」
 ということであろう。
 そもそも、そこからロボット開発は始まったはずだ。
「人工知能」
 というものが、創造主である人間の意志が働ないで、きちんと状況判断ができるということが、人工知能というものの、まず第一歩のはずである。
 だから、今の人工知能というものは、
「スタートラインというものにも、まだ、立っていない」
 と言ってもいいことであろう。
 それを考えると、
「人間と神の距離、そして、人間とロボットの距離」
 というものが、同じでなければいけないといえるのではないだろうか。
 そうなると、
「人間が、神によって支配され、神のために生きている」
 というまるで、奴隷のようなことにならなければ、
「人間が、ロボットを使って自分たちの世界で大いに役立ってもらう」
 ということはできないといってもいいだろう。
 これができるとすれば、
「何と人間というのは、人間だけに都合よくできている」
 ということになり、それは、
「神をもしのぐ」
 ということになるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると。もう一つ考えることとして、
「ロボットに寿命というものがあるのだろうか?」
 ということである。
 身体や、人工知能というのは、しょせん、機械なのだろうから、その寿命はあるというものだ。
「形あるもの必ず滅びる」
 という。
「盛者必衰」
 という考え方にも結び付いてくる。
 ただ、人工知能の回路部分は、
作品名:対比する発想 作家名:森本晃次