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対比する発想

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 ただ、もし出てきたとすれば、それは、
「浦島太郎」
 を陸に連れていく時に、
「使った」
 というのが、その時のカメだったということなのだろうか?
 と考えると、これも、また陰謀説のような考え方だが、
「本当の元の場所」
 とは違うところに連れていったのではないだろうか?
 ということである。
 あまりにも文明が違っているので、
「数百年後の未来」
 という表現になったが、実際には、同じ時代の、
「例えば、もっと文明の発達したところだったのかも知れない」
 といえるのではないだろうか?
 そもそも、
「竜宮城」
 というところが、今までに見たことのない、
「極楽のような世界」
 だったのだとすれば、陸に上がった時、
「こちらも、文明の発達した世界だった」
 といっても過言ではないといえるだろう。
 だから、
「助けられたカメが、ひょっとすると、乙姫のことが好きであって、浦島太郎に嫉妬していた」
 とも考えられるのではないだろうか?
 だから、太郎を、
「まったく知らない世界に連れて行ってしまった」
 という発想もできなくもない。
 しかし、
「未来の世界を見た」
 と考えたのは、
「玉手箱を開けると、おじいさんになってしまった」:
 という話があるからだ。
 その正当性を考えるのであれば、
「太郎がついた世界が、未来の世界だった」
 ということで、
「タイムマシン」
 あるいは、
「ワームホール」
 という発想だったのではないか?
 と考えられるのではないだろうか?
 つまり、
「別の時代の、同じ場所に帰ってきた」
 ということの裏付けでもあり、それが、
「タイムマシンの発想」
 と結びつくということになるのだろう。
 そういうことを考えていると、
「タイムマシンや、ワームホールというものが、時間を移動することはできるのであろうが、場所を移動することができるんか?」
 ということである。
 つまりは、
「数年前のこの場所」
 ということでの移動はできるのだろうが、
「違う場所に移動できるか?」
 ということである。
 この考えは、実は、アインシュタインの、
「相対性理論」
 というものを考えた時、逆説として考えられることではないだろうか。
 というのが、相対性理論の中に、
「光速で移動すれば、その時に、普通の速度を動いている人と、時間の進み方が違う」
 という発想である。
 たとえば、中央線から左右に向かって、まるで、波型を描いているカーブがあった場合。その
「頂点から、頂点」
 というところに、飛び越えた場合、その速度は、距離とともに、スピードが増しているという感覚になることで、
「ワープであったり、タイムトラベルというのは、一気に最短距離を進むことでできる歪んだ世界」
 という考え方がある。
 だから、
「スピードと時間」
 という感覚は、
「切っても切り離せないもの」
 であり、もし、同じ場所にしかいけないのであれば、
「一度遠くに行って、同じスピードで戻ってくる」
 ということになるのであって。
「それが、普通のスピードを描いている波型のカーブになるのではないだろうか?」
 と考えられるが、そうなると、実際の速度や、距離というものと、
「逆ではないか?」
 と考えてしまうのであった。
「だから、相対性理論っていうんだよ」
 とこういう話をするのが好きな友達がいて、それが中学時代だったので、それを真に受けてしまったのだが、今でも、本当にそうなのか、実は分からないでいた。
 小説を書くうえで、その発想というものが、理屈にかなっているかのように思えるのであれば、少々の理不尽さは
「ご愛敬だ」
 といってもいいのかも知れない。
 ただ、タイムマシンでも、ワームホールでも、実際に、
「他の人の前から、一瞬で消えてしまい、近い未来であれば、その時間になると忽然と現れる」
 というものである。
 ただ、ここで問題なのは、
「中の人間には、時間の経過」
 という意識はなく、感覚としては、
「その場所から飛び越えて、また、その場所に戻ってきた」
 という感覚だというのだ。
 その間、記憶が消されていることで、その間の意識がなく、
「飛び越えて戻ってきた」
 というのは、
「そういう表現にしかならないからではないか?」
 ということになるのではないだろうか?
 それを考えると、
「昔に説明用に作られた、カーブと、その間を結ぶ線と点、今考えても、実にうまくできているよな」
 と感じるのであった。
 タイムマシンで移動した人間の感覚と、まわりから見ていた人間の感覚は、まったく違う。そして、普通に、
「相対性理論」
 というものを考えると、
「タイムマシンの中の人間は、少なくとも、光速で、その間に移動したことになる」
 というわけで、その移動感覚というものがないというのは、どういうわけなのであろうか?
 それを思うと、
「タイムマシン」
 であっても、
「ワームホール」
 であっても、
「人間の身体の合うように作られている」
 といことで、
「都合のいいもの」
 という発想と、
「そのメカニズムを知られたくない」
 ということから、
「中にいる人間の記憶を消し去る」
 という力を持っているのかも知れない。
 そして、もう一つ気になるところであるが、
「タイムトラベル」
 というものを行った時、記憶がないだけで、少なくとも、身体には大きな負担がかかっているのではないだろうか?
 ということを考えると。少なくとも、一度のタイムトラベルにおいて、
「その間の寿命が、一気に減っているのかも知れない」
 と感じたとしようか。
 それを考えて、タイムトラベラーになり、
「そのことを証明しよう」
 として、未来に行き、
「自分がいつ死ぬ」
 ということを確認したとしよう。
 その時、例えば、50歳にて死亡」
 ということが分かったとして、それを本当に信じておいいのだろうか?
 というのが、その
「50歳」
 という迎えた死の年齢が、
「本当の寿命」
 だということが分かるのだろうか?
 というのも、
「その時の死亡の原因が、本当に寿命なのかどうか?」
 ということである。
「何かの病気なのかも知れないし、事故や、殺害されたのかも知れない」
 とも考えられる。
 それを考えた時。
「まず、寿命であることが、大前提」
 と考えた。
 とにかく、事故や殺人でない限り、病気でも、一種の、
「寿命だ」
 といえるのではないだろうか?
 ただ、もう一つ言えることとして、
「その時点にたどりつくために、何度も何度も、タイムトラベルを繰り返している」
 ということである。
 タイムトラベルを繰り返すということで、寿命が例えば、一回で、一か月ということにすると、
「12回で、1年、寿命が短縮」
 ということになるだろう。
 ただ、これを考える時、もう一つ問題となることがある。
 というのが、
「タイムトラベルの長さによって、その短縮の度合いが、増減したりしないのだろうか?」
 という考え方であった。
「一年さかのぼるのに、一か月の短縮だ」
 ということであれば、
「二年さかのぼれば、二か月ということになる」
作品名:対比する発想 作家名:森本晃次