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対比する発想

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 これらは、永遠に、つまりは、無限に続いていく生命の繋がりを意味していることであり、
「人間などの一人一人の命には限りがあるが、人類というくくりになると、限りがない」
 という発想であった。
「輪廻転生」
 というのは、宗教的な考え方であるが、
「人が死んだら、一定の基準を下に、来世で生まれ変わる」
 というものである。
 もっとも、
「罪を犯したりした人」
 というのは、
「人間に生まれ変わることはできない」
 ということになるのだが、普通に暮らしていた人は、人間に生まれ変わることで、来世でも、
「別の人生が開ける」
 ということである。
 また、
「自然の摂理」
 というのは、
「人間だけではなく、生物すべてが、弱肉強食という発想で、たとえば、人間が獣を食べる。獣は植物を食べる、その植物は、人間や生物が死んだ時の肥料から育つ」
 というような、少し前の発想であるが、そんな感覚だといってもいいだろう。
 これも、
「繰り返されること」
 であり、どちらかというと、
「三すくみ」
 に近い考えであるが、それが、いかに、どのような形を描くか?
 ということになるのであろう。
 そして、この考え方から導きさされるものとして、
「限りなくゼロに近い」
 というもののすぐ横には、
「無限というものが広がっている」
 という考え方があってもいいのではないか?

                 変えられるのか?

「フレーム問題」
 というものを解決する方法として、もう一つ考えられることとして、
「一点しか見えていないことを、肯定する」
 という考え方である。
 普通であれば、
「一点しか見ない」
 ということは、いいことではない。
 特に、一点だけを見るということは、
「視界を狭くする」
 ということで、
「人間社会を生き抜くうえでは、タブー」
 とまで言われることではないだろうか?
 しかし、それはあくまでも、実生活ということであり、
「架空の世界の創造」
 というものに対しては、
「あてはまらない考えではないか?」
 といえるのではないだろうか?
 つまりは、
「一点だけを見つめるということは、今まで見えてこなかった世界が見える」
 という発想であり、
「その世界というのは、今の自分たちがいる世界とは、次元が違っている世界が広がっていて、全体を見ようとすると、見えなくなってしまうもの」
 といってもいいだろう。
 これを逆に考えると、
「裏の世界というものの存在を知られたくない」
 と考える人たちが、わざと、
「一点を見つめないようにしないといけない」
 ということを人間社会に吹き込んだのではないだろうか?
 あたかも、当然のように言っておきながら、その発想は、あくまでも、
「自分たちの世界にも、発想によっては見えるはずの、別次元の世界」
 というものが広がっていて、
「それをわざと知らせるようにしながら、ミスリードすることで、その存在を逆に否定するかのように考えさせる」
 という、
「精神的に高度なテクニック」
 というものを感じさせるのではないだろうか?
 だから、
「逆も真なり」
 という言葉には信憑性があり、その理屈は、当たり前のように言われるのではないだろうか?
 そういう意味でも、
「一点だけを見る」
 ということは、暗躍する連中にとっては、都合よく使えるもので、実際には、
「その一長一短の存在」
 というものが、
「いかに、前と後ろの存在感」
 というものが、紙一重として捉えられるかということに繋がってくるのではないだろうか。
 それを思うと、
「長所と短所は紙一重」
 という言葉であったり、
「長所は、短所の裏返しだ」
 というような言葉に繋がってくるのではないだろうか?
 それを思うと、
「人間は頭が良すぎて、最後の一点を飛び越えることができずに、同じところをループしている」
 といえるのではないだろうか?
 万太郎という小説家は、そういう話を書くのが好きだった。
 特に、SFにおカルト色が混ざったような、
「都市伝説系」
 の話を、
「ロボット工学」
 であったり、
「時間軸や、次元」
 というものを組み合わせる理論的な発想が好きだったのだ。
 だから、SFということで、
「宇宙」
 という発想を抱くこともあった。
 それに、宇宙と、時間という発想から、
「アインシュタインの、相対性理論」
 というものにも、造詣が深かった。
 その発想からくるものとして、昔のおとぎ話にある、
「浦島太郎」
 を考えるような小説も結構あった。
「玉手箱」
 を開けたことで、おじいさんになってしまったというエピソードが、ある意味、伏線として使われていて、本当であれば、
「見るなのタブー」
 という意味での、
「おとぎ話の常套手段」
 といっていいような話を、伏線に使うのだから、この話は、それだけでもすごいものだといえるのではないだろうか。
 さらに、あの浦島太郎という話は、実は、続編があったのだ。
 普通であれば、
「玉手箱を開けてしまい、おじいさんになってしまった」
 という、
「いかにも中途半端なところで終わってしまった」
 ということなのだろうが、あの話はある意味、
「どんな終わり方をしても、中途半端でしか終われないのではないか?」
 といえるのではないだろうか。
 というのも、
「そもそもが、カメを助けたことで、いいことをしたのだから、ハッピーエンドでなければいけない」
 というところにもってきて。
「開けてはいけないというものを開けた」
 ということでの、
「見るなのタブー」
 というものが問題になるのである。
 どちらにしても、この二つを用いたということは、
「どんなラストにしたとしても、そこには矛盾は生じる」
 ということであった。
 しかし、実際には。この話は、ハッピーエンドだったのだ。
 というのは、
「おじいさんになった太郎は今度は、ツルになって、太郎を愛してしまった乙姫が、カメになって、地上に現れ、二人は幸せに暮らした」
 ということであるらしいが、これもおかしな話だ。
 そもそも、乙姫というのは、
「竜宮城の姫」
 ではないだろうか。
 人間社会であれば、王族の姫なのだから、勝手に他のところにいくなどあり得ない。
 しかも、このお話を作ったのは、
「人間なのだ」
 その常識を打ち破って、それも、何ら説明もなく、
「乙姫が、愛する男のために、自分の立場を捨てて、地上にくる」
 ということが、教育上まずいということで、削除されたのではないだろうか?
 浦島太郎の話を、
「本当は続いているのに、途中で終わらせた」
 というのは、
「明治政府だ」
 と言われている。
 それなりの理由はあるのだろうが、
「言われている理由というのが、本当にそうなのか?」
 と考えてしまうのだった。
 一つ、辻褄ということで考えると、仮設のようなものが考えられるのであった。
 というのが、
「乙姫は、最後にカメになった」
 ということであるが、では、浦島太郎が助けたカメというのは、その後一度も出てきてはいないが、そのカメはどうなったのか?
 ということである。
作品名:対比する発想 作家名:森本晃次