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対比する発想

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「人間が危機に陥る」
 ということになってしまったり、
「ロボットの人工知能の限界を迎えたり、無限ループに陥ることで、結果として、ロボットは、まったく動けなくなってしまう」
 ということになるということであった。
 それが、
「ロボット工学三原則」
 というものの限界ともいえるが、逆に、
「改善すべき点が、明確になった」
 ということで、
「五里霧中の中で、喘いでいる」
 ということにはならないということであろう。
 また、ロボット開発というものには、この、
「ロボット工学三原則」
 というもの以外に、別の大きな問題があった。
 これは、
「ロボット工学三原則」
 よりも、問題としては大きく、人工知能という、そのものの限界を表しているということで、
「ロボット工学三原則」
 よりも前に解決しておくべきことなのかも知れない。
 その問題というのは、
「フレーム問題」
 というもので、
「ロボットが、人間の命令に忠実に従うだけの機能しかもっていない場合はそれでいいのだが、自分の意志や考えに基づいて行動するようになった時に問題になる」
 ということである。
 これは、前述の、
「タイムパラドックス」
 というものに、引っかかるという部分もあるのだが、
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
 というところに、この
「フレーム問題」
 というのが引っかかってくるのであった。
 次の瞬間に無限の可能性が広がっているのだから、ロボットは、無限の可能性を探ることだろう、
 実際に、
「いつが、発想の終わりなのか?」
 ということを、誰が理解できるというのだろうか?
 無限の可能性を考えた時、基本ロボットは動かない。回路の中に、
「危険があるかも知れない場合は、動いてはいけない」
 という、本能のようなものがあるのかも知れない。
 ただ、動かないということは、少なくとも、
「何かをするために行動する」
 ということで、目的が定かでないことに対して、行動できるわけなどないといってもいいだろう。
 それを考えると、
「ロボットというものは、基本、人間に一番近いものだ」
 ということであろう。
「人間というものが、世の中で最高の頭脳を持っている」
 と信じて疑わない以上。作る人工知能は、人間というものを手本にしているに違いない。
 だから、ロボットは、目の前に広がった、
「無限の可能性を理解し、その中で最善の方法を見つけなければ、行動しない」
 というのは当たり前というものである。
 それを考えると、
「ロボット開発」
 というものは、
「人間以上のものを作ることはできない」
 ということであり、裏を返せば、
「この世で最高なものは、人間以外何者でもない」
 ということになるのだ。
 だから、
「人間にできないことは、ロボットにもできないわけで、せめて、限りなく人間に近いロボットをいかに作れるか?」
 ということにしかならないのだ。
 だが、人間の欲というのは、果てしないもので、
「人間以上のロボットを作りたい」
 と考えるのは、開発者としては、当然のことではないだろうか。
 それくらいのことを考えないと、
「何もないところから、新たなものを開発するなど、できるはずがない」
 ということになるのだ。
 それを考えると、
「無限の可能性」
 という命題に、
「どこまで近づくことができるのか?」
 ということになるのであった。
 ロボット開発において、
「人工知能が、今のままでは、まったく機能しない」
 ということは、
「ロボット開発者」
 にはわかっていることだろう。
 そこで考えたのが、
「考えられる可能性を、フレーム。つまり、パターンごとに考えて、その無限というものを有限にできないか?」
 ということであった。
 だが、よくよく考えてみると、
「無限からは、何で割ったとしても、そこに求められる答えというのは、無限でしかないのだ」
 という
「数学の公式」
 が頭をもたげる。
 そうなると、普通であれば、
「ロボット開発は不可能だ」
 ということになるだろう。
 何しろ、ロボットは、無限ループにはまり込んで、答えが見つからないまま、身動きができなくなってしまうということになるのだろう。
 だが、ここで一つの考え方であるが、
「限りなく何かに近い」
 というのは、
「決して、その近いものに到達することはない」
 という考え方も成り立つのではないだろうか?
 というのも、
「合わせ鏡」
 あるいは、
「マトリョシカ人形」
 というものの考え方として、
「限りなくゼロに近い」
 と考えられるものがある。
 合わせ鏡」
 などは、
「前後左右のどちかに、自分を囲むように鏡を置くとすると、鏡には、まず自分が映し出されるが、その向こうには鏡があって、その鏡には、また自分が写っている」
 ということである。
「鏡の向こうに自分がいて、その向こうにまた鏡があって、そこい自分が写っている」
 という、いわゆる、
「無限ループ」
 を繰り返しているといわれるが、これが無限であるというゆえんは、
「限りなくゼロ」
 にはなるが、決して
「本当のゼロになる」
 ということはない。
 つまりは、
「整数は、何で割っても、ゼロになることはない」
 という、こちらも、
「数学の公式」
 というものが当てはまるわけである。
 かたや、
「無限に広がっているものは、無限でしかない」
 と言われる考え方で、こちらは、
「ゼロというものに近づくことはできるが、ゼロというものにはなりえない」
 という発想は、そのどちらの発想も、
「除算においてはありえない」
 ということだ。
 ただ、これは裏を返せば、
「除算にないのだから、積算にもありえない」
 ということで、
「引き算をすることで、簡単にゼロになることができる減算」
 とは、まったく考え方が違うといってもいいだろう。
 しかし、人間の本質などを考える場合は、
「積算、除算というものに圧倒的に支配される考え方だ」
 と言えるのではないだろうか。
 それを考えると、
「人間の知能は、積算除算を考えることで成り立つのではないだろうか?」
 と考えられるのであった。
 そのような、
「積算」
「除算」
 などということを考えていると、
「フレーム問題」
 というものに、別の考え方が生まれてきたのだ。
 というのは、
「フレーム問題」
 というのは、それぞれの可能性を、
「いくつかのパターンで考える」
 ということであり、ただ、それをしても、結局、
「無限を何で割っても無限しか残らない」
 という、
「除算の限界」
 というものにしか行き当らないということになるのであろう。
 そんなことを考えていると、
 前述の、
「合わせ鏡の発想」
 である、
「限りなくゼロに近い」
 という発想との組み合わせという考えが浮かんできたのである。
 限りなくゼロに近いものは、決してゼロではない」
 もっといえば、
「なくなるということはない」
 ということだ。
 世の中には、
「輪廻転生」
 という言葉であったり、
「自然の摂理」
 などという言葉がある。
作品名:対比する発想 作家名:森本晃次