対比する発想
「タイムリープ」
というのは、
「今の記憶を持ったまま、今の自分が、過去の自分に乗り移る」
という感覚である。
だから、
「タイムリープには、制限がある」
と言われている。
というのは、あくまでも、自分に乗り移るのだから、
「自分がいない時代」
では、
「タイムリープ」
というのは、存在できないということになるのだ。
そして、
「タイムループ」
というのは、ある一点から、もう一度、その時間を繰り返すことをいう。
その時、繰り返しているという意識があるという考え方が、一般的な考え方だといえるのではないだろうか。
タイムスリップというのは、タイム何とかと呼ばれるものの中で、一番ポピュラーなものであり、たとえるとしても、一番わかりやすいものであろう。
しかし、そこには、問題点もたくさんあり、
「これが解決しない限り、タイムトラベルは、不可能だ」
と言われるだろう。
というのが、
「タイムパラドックス」
というものだ。
「同一時間の同一時限に、同じ人間が存在している」
ということ、
そして、
「過去に行って、過去を変えてしまうと、未来がまったく変わってしまう」
ということである。
つまり、過去を変えて未来が変わってしまうと、
「何も知らずに過去を楽しんでから、元の時代に戻ると、そこはすでに変わってしまっている世界だ」
ということになる。
つまり、
「未来に向けて、現在は、無限の可能性がある」
ということで、未来には、現在からの、
「無限の可能性の中で成り立っている」
ということになる。
しかし、実際に起こった未来は、一つしかない。
「いや、一つしか見えていない」
というだけで、実際には、たくさんの可能性に裏付けられた未来が広がっているのかも知れない。
その世界しか見えないから、
「世の中はきれいにつながっている」
ということになるのではないだろうか?
要するに、
「一点しか見ていない」
ということである。
よく会社やじ、
「人生の先輩なる人から、
「一点だけを見ずに、まわりをもっと見なさい」
と言われるが、果たしてそうなのだろうか?
見えている部分がその人いとっては、すべてであり、どんなに周りを見ようとしても、同じものしか見えないのではないだろうか。
これが、ある意味での、
「真理ではないか?」
と考えるのであった。
というのも、一つとして、未来への創造ということで、
「タイムマシン」
と双璧のように考えられるもので、
「ロボット開発」
というものがある。
こちらも、
「パソコンやケイタイなどの機械は、どんどん開発されているのに、やっと、AIというものの赤ん坊くらいのレベルのものが開発されただけで、自分の意志や判断で動くというロボットは、なかなか開発されない」
ということである。
そこには多くな問題が二つあり、これは、半世紀飴、いや、実際には、もっと前から言われていたことではないだろうか?
まず、その一つに、
「ロボット工学三原則」
というものがある。
これは、
「フランケンシュタイン症候群」
というものに絡むおので、
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」
というのが、
「フランケンシュタイン」
という話だった。
この話は、人間の補佐をさせる形で、
「強靭な肉体を作ったことにより、人間に制御ができなくなった時、これ以上の恐ろしい存在はない」
ということになる。
だから、人間にとって、この恐怖は、開発者にとって、
「人類全体のトラウマ」
のようになり、
「ロボット開発は、不可能だ」
と考えるようにもなっていた。
しかし、
「だったら、人工知能に、人間に逆らわないものを作る」
という発想が出てくるのであった。
それが、
「ロボット工学三原則」
というもので、これが、
「工学博士」
のように人によって、考案されたものではなく、
「SF小説作家」
によって考案されたものだというところが注目点であった。
それが、今から約半世紀以上前のことで、その三原則というものは、よくできていて、
「人間がいかに、ロボットから襲われずに、うまく共存できるか?」
ということに特化していた・
第一条として、
「ロボットは、人間を傷つけてはいけない。そして、人間が危機に陥りそうなのを見た時は、それを見逃してはならない」
つまり、
「身を挺して、人間を守らなければならない」
ということになるのだ。
そして、第二条は、
「ロボットは、人間の命令に従わなければならない。ただし、第一条に抵触してはならない」
ということである。
つまり、
「人間のいうことに従わないロボットは、そもそも、存在意義の問題となるが、だからといって、誰かを殺せなどという命令は、人を傷つけることになるので、その命令を聞いてはいけない」
ということだろう。
もし、ロボットが実際に活用されるようになると、複雑な人間社会で、
「共存」
という形になるのだから、当然、ロボットにも、人間社会での共存を人工知能でできるように、
「ロボットが守らなければいけない法律」
というものを制定する必要があるだろう。
まだ、そこまでは程遠く、最低でも、
「フランケンシュタイン症候群」
というものを引き起こさない程度にまではしておかないといけない。
それが最低限の問題であり、
「そこから始まる原始的な発想」
といってもいいだろう。
そして、第三条としては、
「ロボットは、自分の身は自分で守らなければならない」
ということだ。
これも、
「一条、二条に抵触してはいけない」
ということだ。
だから、
「人間が危機に陥ったのが分かっていなから、見て見ぬふりはできない」
という一条の方が強いので、その時だけは、ロボットは、身を挺して人間を助けなければいけないという判断をするということなのだ。
それが、
「ロボット工学三原則」
というものだが、実際に考えてみると、この三原則は、あくまでも、
「原則」
ということで、法律のように、カチッとしたものではない。
何といっても、
「スローガン」
というものがないから、
「一貫性がない」
と言ってもいいだろう。
何といっても、
「SF小説家」
が、自分の小説のネタとして考えたことなので、
「何かの問題や矛盾というものがなければ、成り立たない」
ということであろう。
だから、小説家としての見方なので、
「フィクションとして、面白おかしく描く」
ということになるのだ。
そういう意味で、わざと、辻褄の合わないものにしたのかも知れない。
そういう意味では、
「ロボット工学三原則というものが、今の時代にまでバイブルのように言われ続けているということにびっくりしているのは、当の小説家本人なのかも知れない」
ということである。
だから、彼の小説は、すべてにおいて、
「矛盾だらけで、そのために、事件が起こる」
ということである。
つまり、
「ロボット工学三原則」
というものの、根幹にあるものは、
「その優先順位」
なのだ。
優先順位が狂ってしまうと、