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対比する発想

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 ということはない。
 これは、かなり強烈で一方的な発想であるが、
「世の中には、必要悪」
 というものがある。
「強大な権力であったり、圧倒的な力に対しては。尋常な力ではかなわない。その力に立ち向かうために必要な力であれば、本来なら悪と言われるものでも、存在する必要がある」
 という考え方だ。
 これの究極が、
「自然の摂理」
 というべきものでの、
「弱肉強食」
 というものだ。
 確かに、食べられる動物は、
「気の毒であり、かわいそうだ」
 というきおとであるが、そうやって自然界が回っていくのだから、
「犠牲」
 というのもやむを得ない。
 という理屈である。
 ただ、これが、人間界での出来事となると、
「弱肉強食は許されない」
 という主義が、今の世界では常識になっている。
 そこには、
「正義と悪」
 という発想があり、
「正義というものは、悪を駆逐する」
 という、勧善懲悪の考え方が、今の世の中を作っているといってもいいだろう。
 そのために、
「平和を守る軍隊」
 があり、
「治安を守る警察」
 があるというわけである。
 警察も、軍隊も、
「自国の平和と治安を守るため、犯罪者であったり、侵略者を駆逐する」
 というのがその役目で、基本は、
「国民を守る」
 ということにあるのだ。
 民主主義であり、法治国家であれば、
「まず守らなければいけないのは、定められた法律」
 というものである。
「刑法や民法などのような私法と呼ばれるものは、国民が守るべき法律」
 であり、
「憲法というのは、法律を作る側。つまり、三権分立でいうところの立法である、国会議員や、行政の政府、司法の法曹界が守らなければいけないものである」
 ということだ。
 そして、民主主義の基本は、
「多数決であり、自由主義」
 ということだ。
 警察というところは、
「民事不介入」
 というべきもので、国家権力である警察の力は、民事には影響しない。
 あくまでも、刑法犯だけを扱うのが警察なのだから、民事に関しては、民間の弁護士であったり、探偵事務所などというところが、
「お金をもらって、商売として行っている」
 というのが、その考えだといってもいいだろう。
 そういう意味で民主主義国家ということになると、
「多数決」
 であったり、
「自由主義」
 における問題は、置き去りにされていくことになる。
「多数決が優先なら、少数意見は、どんなに正しいことであっても、無視されるということなのか?」
 ということであり、
「自由主義で行うのであれば、弱肉強食によって、あからさまに人を攻撃していなかれば、合法として、許されるのか?」
 という問題から、
「貧富の差」
 というものが、いつまでも社会問題として消えることはなくなるのだ。
 しかも、そこに、
「金儲けのためには手段を択ばず」
 ということで、のし上がってきた人の裏で、どれほど、詐欺であったり、
「民法犯罪」
 というものが起こっているといえるのだろうか?
 つまりは、
「自由主義」
 というものは、
「弱肉強食社会」
 ということであり。
「弱いと食われ、強いと生き残る」
 というものであり、それこそ、
「強者には、生殺与奪の権利というものまで与えられる」
 といえるのではないだろうか?
 もちろん、
「本当に殺人を犯す」
 というのは、それ以前に、刑法犯というものであるが、しかし、
「相手を精神的に追い込んで、死に至らしめる」
 ということは、ざらにあるというものではないだろうか?
「自らの手を汚して行う殺人が裁かれて、相手を精神的に追い詰めることで、相手に死を選ばせるということが、罪に問われないというのは、本当にそれでいいのだろうか?」
 これは、
「勧善懲悪」
 という考え方でなくとも、普通に考えれば、
「あり得ないことだ」
 といってもいいだろう。
 それを考えると、
「それこそ、金持ちというのには、生殺与奪の権利が備わっているのかも知れない」
 といえるのではないだろうか?
 そんな民主主義というものが、
「欠点だらけだ」
 ということで、民主主義の限界という考えから生まれたのが、
「社会主義」
 というものであった。
「皆、平等で、貧富の差のない世界」
 という発想であった、
「理想の社会」
 のように見えたが、実際に生まれた、
「社会主義」
 そして、その発展型である考え方としても、
「共産主義」
 というものが、今から100年ほど前に生まれたのだ。
 この世界というのは、確かに、
「平等」
 という発想から、
「国家による介入」
 というものを深めた。
 とにかく、品保の差をなくすために、経済界での競争というものをなくすために、企業は、すべて、
「国営」
 で、競争というものもなくした。
 給料は皆同じで、競争がないから、平等ということである。
 さらに、そうなると、問題になってくるのが、
「多数決」
 という問題だ。
 多数決ができないのであれば、どうするか?
 国家がこれだけ社会に介入しているのだから、出てくる答えは一つしかない。
 それが、
「国家による独裁」
 であった。
 しかも、それは、
「独裁者というものを生む」
 ということになるのだ。
 かつての、
「ムッソリーニ」
 であったり、
「ヒトラー」
 が君臨した時代である。
 ただ、この時の時代背景には、
「致し方ない」
 というとことhがあった。
 民俗戦争といってもいい第一次世界大戦に敗れ、多額の賠償金を強いられ、経済が大混乱となったドイツ、さらに、世界恐慌をもろに受けたイタリアなどが、
「救世主」
 を求めるのは、無理もないことだ。
 それが、
「ヒトラー」
 であり、
「ムッソリーニ」
 だったのだ。
 しかし、第二次大戦で、それも崩壊する。
 それでも、独裁として生き残ったのが、
「社会主義」
 というものだった。
 こちらは、あくまでも、
「民主主義の限界に挑戦した」
 理想の国家であった。
 ある意味でいけば、
「理想の人間を作ろうとして怪物を作ってしまった」
 という、
「フランケンシュタイン」
 に似たところがあるのではないだろうか?
 そういう意味で、
「社会主義は、フランケンシュタイン症候群というものの、たとえに使えるのかも知れない」
 といえるのではないだろうか?
 そんな社会主義も、
「ソ連の崩壊」
 によって、今では相当に数が少なくなった。
 それは、結局、
「社会主義も、理想の世の中ではなかった」
 ということであろう。
 そういう意味での、
「ユートピア」
 ともいえる国家は存在できるのだろうか?
 とも考える。
 そもそも、今まで脈々と受け継がれるように流れてきた、
「歴史」
 というものの真実は。どこにあるのだろうか?
 事実は確かに、過去が証明しているのだろうが、
「真実というのが、未来にあるのだとすれば、それがどこなのか? 誰が分かるというのだろう?」
 そう、昔から、何かが起こって、例えば、クーデターが起こり、それが失敗した時など、その時の指揮官が、
「俺たちが悪かったのかどうかは、必ず歴史が答えを出してくれる」
 というが、
作品名:対比する発想 作家名:森本晃次