対比する発想
「その答えは、いつの時代のどこにあるというのか?」
ということである。
もっといえば、
「人間は、自分の寿命すら知らない。自分がいつ死ぬのか?」
ということすら分からないのに、
「歴史の真実」
というものが、
「どこにあるのか?」
ということを、誰が分かるということになるのだろうか?
それを考えると、
「歴史が答えを出してくれる」
という言葉は、確かに格好いいが、
「それが、いかに、薄っぺらい紙のようなものであるか?」
ということである。
「実際に、歴史というものが、どのようなものであるか?」
ということを分かっている人がどこにいるというのだろうか?
そもそも、考えられることとして、
「原因と結果」
があるのが、歴史であろう。
そして、この原因と結果ということで、
「真実と事実」
と言い換えることができる。
その考えが、
「事実という結果は一つしかないが、原因というものが複数あって、一つではない可能性が高い」
ということから、本来言われている、
「過去は変えられないが、未来を変えることができる」
という言葉で、今の世の中の考え方であっても、
「過去は変えられないというのは間違いないが、未来も変えられない」
といえるのではないだろうか?
もちろん、現在というものが、
「結果」
であるとすればということで、ある意味、途中経過であっても、結果につながるものとして一つではないか。
そう考えると、
「原因となるものが、進行し始めれば、そこから先は、結果という答えに向かって、変えられるものではない」
といってもいいだろう。
もちろん、他にもいろいろ考えがあるだろうが、この感がえが一番、ふさわしいといえるのではないだろうか?
大団円
そんなことを考えながら小説を書いていると、
「未来に行くほどに、若返る」
という発想が生まれてきた。
この発想は、急に浮かんできたもので、
「時間というものを考えていると、急に、神が下りてくる」
というような時があったりするのであった。
というのも、
「普段から、いつも何かを考えている」
というところからであった。
それも、
「理屈に合いそうな、数学的な発想のもの」
が多く、小学生の頃などは、
「数学というよりも、算数という感じで、特に文章題が好きだったのだ」
ということであった。
だから、よく先生に、自分の考えた公式を、授業が終わった放課後に見てもらっていたりしたものだった。
よく考えれば、当時は、
「ゆとり教育」
というものだったからできたことで、今のように、
「詰め込み教育というものを、またしてもしようとしているこの世の中では、ブラックと言われる先生の仕事においては、そんな余裕などないだろう」
ということだ。
「平均勤務時間が、毎日10時間以上が当たり前」
と言われるブラックな先生には、
「土日も夏休み」
というのもないのだ。
しかも、昔からある、
「いじめ問題」
であったり、
「学級崩壊」
というものは、どうしようもない状態にまでなり、
「パワハラ」
などというものがなくても、
「精神が病んでしまった」
ということはざらにあることだろう。
そんなことを考えていると、
「昔は、学校の先生も楽だと言われた時代があった」
と平気でいう人もいるが、その人の神経も診てもらった方がいいのかも知れない。
算数が好きだったことで、
「いつも何かを考える」
というようになり、当然、算数のように、
「理屈にかなったこと」
を考えるようになったのだ。
特に算数というのは、
「答えは一つだが、そこに至るまでの過程を導き出すことが大切だ」
というものであり、これは、
「原因から結果を導き出す」
ということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「それを、小説に使えるのではないか?」
と今は考えるようになっていたのだった。
だから、今では、
「原因と結果」
「未来と過去」
などという、
「対比するもの」
ということでの、理屈を考えるようになったのだ。
それに一番ふさわしいのが、
「時間軸」
というものであり、ジャンルとしての、
「SF小説」
ということになるのであった。
最近、万太郎は、小説を書く時に感じているのが、今回考えている。
「原因と結果」
「未来と過去」
ということであった。
それに、膨らませた発想とdして、
「真実と事実」
というものを組み合わせることによって、それまでは、複数のパターンがあってもおいいと考えていたが、
「事実だけは一つだ」
ということを考えるようになると、それまで複雑に絡み合うことで見えなかったであろう。
「他の次元」
あるいは、
「他の時間」
というものを切り離して考えることができるようになった。
要するに、
「無理をすることはないのだ」
つまりは、
「無理に、話を結び付けることもないし、いくらでも発想できるものを、無理に一つにまとめようとする必要もない」
それが、
「ロボット工学」
における、
「フレーム問題」
というものであって、
「無理に考えるから、まとまるものもまとまらない」
ということで、人間は、
「フレーム問題」
というものに対して、
「無理に考える必要はない」
ということになるのだ。
万太郎は、今回の小説で、一つのアイデアというか、考え方というものが浮かんでいた。
「どうして今まで思い浮かばなかったのだろうか?」
と考えられることであるが、その考え方というのが、
「時間というものを、輪切りにして考える」
ということであった。
これは、若干、
「フレーム問題」
というものに近いのかも知れないが、それはあくまでも、
「無限」
というものを考えた時、それ以上に無理なことは、
「無限から何を割っても無限でしかない」
という数学の公式が邪魔をするのだ。
子供の頃から、ずっと無意識に考えている数学の公式、こんなところで、自分のネックになるということから、
「意外と人間は、数学に対して、そこまでこだわらない人が多いことが、フレーム問題の解決になっているのかも知れない」
と感じるのだった。
そんなことを考えていると、
「輪切り」
という考え方が、
「未来と過去に挟まれた形である現在というもの、実はこれは一番大切なものだ」
ということをいまさらのように、思い知らされるものではないかということであった。
というのも、
「まるで、モグラが、地面を掘るかのように進んでいる姿を思い浮かべるといいのかも知れないが、そんな状況が、現在に起こっている」
という発想であった。
そして、今度の小説において、時間を輪切りにすることで、
「自分だけが、時代を逆行している」
というような発想を思い浮かべたのであった。
時間というのが、
「すべての世界は、ごく短い局地的な周期」
ということであり、また、
「平衡感覚の時間」
というものであるかのように感じ、新たな作品を書くようになったのであった。
( 完 )
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