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対比する発想

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 そのことを、物理学者や科学者は、
「すべてにおいての、前提」
 ということで考えていることだろう。
 逆にいえば、
「過去が変わっても、未来に影響しない」
 という考えは、普通はないからである。
 だから、その矛盾のことを、
「タイムパラドックス」
 といい、
「過去は変えてはいけないものだ」
 という発想が、当たり前のように言われているのであった。
 それは、当たり前と言えば、当たり前のことであり、
「だから、タイムマシンを作ることはできない」
 と言われるのだ。
 しかし、それは、あくまでも、
「タイムスリップ」
 をした場合のことである。
「過去の自分がどんなだったか、見に行きたい」
 などと、単純に思って過去にいくと、それだけで、
「歴史を変えてしまった」
 ということになるだろう。
 しかし、過去を変えてしまったことに気づかずに、また現代。つまり、
「過去から見た未来」
 に戻ってきた場合、まったく違った世界に入り込んでいるという可能性があるということになるのだ。
 それが、
「パラレルワールド」
 と呼ばれるもので、
「無限にある次の瞬間の可能性」
 の中から、選択肢を変えてしまったことで、そこから先の未来が、まったく違った世界を開いてしまったことになり、
「現代」
 という、元々いた場所に戻ったはずなのに、まったく違うところに戻ってきたというような、まるで浦島太郎のような状態になるのだ。
 それを考えると、浦島太郎の話は、
「未来に戻ったのではなく、過去を変えてしまったことで、変わってしまった現代」
 という発想に立ってみると、
「竜宮城は、過去の世界ではなかったのだろうか?」
 という仮説を立てることもできる。
 あの話は、奇怪な話ではあるが、実際には、
「矛盾の中の矛盾」
 というものを見つけるという発想から、
「マイナスにマイナスを掛けるとプラスになる」
 という一種の、逆説のようなものなのかも知れない。
 そもそも、
「パラドックス」
 という言葉に意味は、
「逆説」
 ということになるのだ。
 それを考えると、
「過去を変えると、未来が変わる」
 というのは、正論でしかないといってもいいだろう。
 しかし、
「事実」」
 と、
「真実」
 というものが違うということになると、その考えでいくと、
「結果が一つなら、原因も一つ」
 ということはないということである。
 しかも。原因と結果ということから考えると、
「原因が一つであれば、結果が一つとは限らない」
 または、
「結果が一つであれば、原因が一つということもありえない」
 と考えられ。
「結果と原因の両方が一つだ」
 ということ以外は、
「それぞれに複数であってもいい」
 ということになる。
 では、それが、
「過去と未来」
 という発想であればどうだろうか?
「過去と未来は、必ず一つずつだ」
 と思われていたことが、
「パラレルワールド」
 であったり、
「マルチバース理論」
 などによって、絶対に一つではない。
 といえるであろう。
 では、これも、
「原因と結果」
 のように、どっちも複数であってもいいということになるのであろうか?
 考え方としては、その通りだと思う。
 しかし、これが、
「真実と事実」
 ということになると、そうはいかない。
 なぜなら、
「真実はいくつあっても構わないが、事実というものは、必ず一つだ」
 ということだ。
 では、
「真実と事実」
 という考えと、
「原因と結果」
 ということを照らし合わせると、理屈が合わなくなる。
 つまりは、
「真実と事実」
 というものには、時系列というものが関係ないからだ。
 同じ時間軸の同じ時間にあっても構わない。それが、真実と事実という考え方であろう。
 それを考えると、
「過去と未来」
 という考え方は、時系列があることで、過去が一つに確定すれば、未来も一つだといってもいいのではないだろうか?
 だから、
「原因と結果」
 も、同じで、
「過去であったり、原因というものが、一つに固まる前であれば、未来も不確定だが、固まってしまうと、一つにある。
 つまり、
「原因が結果になってしまった場合、その未来が確定される」
 ということで、
「決定した瞬間」
 というものを、時系列でいえば、
「現在」
 というのだろう。
 だから、
「原因と結果」
 との間には、決定した瞬間がない。
 決定した瞬間を結果と呼ぶのだとすれば、その先に起こることは、未来となるので、もし、
「原因と結果」
 と、
「過去と未来」
 という考え方に、何か差があるのだとすれば、それは、
「過去と未来の間には、確定するという現在というものが存在している」
 ということになるのだ。
 そして、現在というのは、時間とともに、進んでいく。
「未来が現在となり、次の瞬間には過去になっているので、現在というのは、ある意味、風前の灯のようなものだ」
 だから、
「原因と結果」
 というものの間には、
「決定した」
 という認識はないことで、
「原因と結果が、一つではないかも知れないが、それは、結果に結びつく、時系列でいうところの、現在という、確定する瞬間がないからであろう」
 それがなくてもいいのは、それだけ人間というのが、
「高等動物だからなのかも知れない」
 それを考えると、
「フレーム問題というものが、人間にはない」
 という理屈が成り立つ。
 ということになるのだ。
 さらに、発想を膨らませると、そこに、
「真実と事実」
 というK轅方が生まれてくる。
 これは、どちらかといううと、
「立体と平面」
 ということで考えると、分かることなのかも知れない。
「立体というのは、見る角度によって、いろいろな見え方になる」
 と言え。
「平面は、一つにしか見えない」
 といえるであろう。
 あくまでも考え方という意味でだが、平面でも、
「サッチャー錯視」
 のようなものであったり、見え方に錯覚を引き起こすものもあるが、基本的には、立体のように、リアルに違って見えることはない。
 これは、
「二次元と三次元の違い」
 とも考えられ、これに
「四次元」
 というものが絡むと、そこには、
「時間」
 という概念が入ってくるということであろう。
 時間ということを考えると、そこにあるのは、
「未来というものの創造」
 といってもいいだろう。
「次の瞬間には、無限の可能性が潜んでいる」
 という未来という考え方であるが、
「未来というのは、本当に変えられるのだろうか?」
 もし変わったとして、
「それを誰が証明してくれる」
 ということになるのだろうか?
 確かに、分かっているのは、過去と、現在だけである。
 ただ、これも、
「すべてが分かっている」
 というわけではない。
 現在を含む、すべてを分かるわけはないとしても、
「自分を取り囲む環境」
 というものだけでも分かっているといえるのだろうか?
 皆把握しているのであれば、
「だます。だまされる」
 などということもないわけだし、
「犯罪や、戦争」
 などというのも、もっと減ってもいいだろう。
「この世から消えてなくなる」
作品名:対比する発想 作家名:森本晃次