対比する発想
ということである。
数年前から流行っていて、いまだにそれが解消されていない、
「世界的なパンデミック」
と呼ばれる病気であるが、
「政府が、金を出したくないという理由だけで、伝染病のランクを一気に下げた」
という時期があった。
確かに、その頃は患者がかなり減っていたので、それ以降増えなければいいのだが、それから半年も経っていない状況において、
「患者が、けた違いに増えて、学級閉鎖が、ひどい状態になっている」
と言われているのだが、これは一体どういうことなにか?
それでも、政府は、それを公表しない。
マスゴミも、公表しないということは、
「政府が隠蔽しようとしている」
という、それこそ、
「政府の常套手段」
ということであった。
「それこそ、国破れて山河在り」
という状態で、
「外見上は、何も変わっていないのに、住んでいる人が一人もいない」
という状況になりかねない。
それが、日本政府の方針なのかと思うと、
「自分たちの運命を、こんな政府にゆだねているのか?」
と思うと。
「いよいよ覚悟を決めなければいけないのか?」
と思っている人も少なくないだろう。
とにかく、サナトリウムというところは、伝染病で大切な、
「患者の隔離」
というものを目的にしたところだった。
しかし、
「不治の病」
なのだから、
「隔離されながら、治ることのない状態において、死ぬのを待っているだけだ」
ということになるにしては、
「実に粗末な建物」
だった。
政府は今も昔も、
「どうせ死んでいく人間のことなど、どうでもいい」
と感じているに違いない。
「さすが、自分たちの保身だけに動いている政府だ」
といってもいいだろう。
「精神科での隔離」
といっても、昔とはかなり違うだろう。
一度、テレビで見たのは、昭和50年代をテーマにしたドラマで、精神科の入院病老が写っていたが、病室の表には、鉄格子が貼られ、
「脱走不可能」
ということになっていた。
「脱走すれば、何をするか分からない」
ということなのだろうか、
病室も心なしか、みすぼらしいもので、実に情けないものだった。
「ここに人間としての尊厳は、どこにあるのだろうか?」
と、今であれば感じるのだろうが、きっと当時は、
「これが当たり前だ」
ということで、頭の中を洗脳されていたのだろう。
だから、同和問題であったり、差別的なものの撲滅で、学校でも、そんな授業があったのだろう。
かたや、学校教育では、
「差別はいけない」
といっておいて、現実はまだまだ、こんなものだった。
昔の、サナトリウムにしても、精神科の病棟にしても、
「こんなものが、どういう発想になるのか?」
真剣に考えた政治家などがいたのだろうか?
さすがに今は、充実している。
それは、同和教育を受けた子供が大人になって、
「さすがにまずい」
と考えたからなのか、それとも、
「いやいや、そんな生易しいことではない」
ということで、単純に、精神疾患のある人が、社会の構造の悪化によって、増えてきたからだといえるのではないだろうか?
後者は、ほとんど間違いのない状態といってもいいだろう。
だからこそ、
「コンプライアンス違反」
ということでの、
「セクハラ」
「パワハラ」
というのが社会問題となったのだ。
それらが、会社などにおいて、大いに社会問題になった。
それこそ、
「ブラック企業」
と呼ばれるものだが、
「上司の力による暴力」
その力が、腕力というものであったり、
「上司という立場」
というものであったりするだろう。
どちらにしても、
「部下には上司に逆らうことができない」
というもので、まるで昔の軍隊のようではないか。
「一時期は、そんな軍隊のようなものから、脱却したはずだったのに、また起こっている」
社会問題となったはずなのに、相変わらず、
「どこの会社にもくすぶっていて、大小の違いというだけではないだろうか」
ということであった。
たとえば、
「毎日のように、殴られる。蹴られる。ネクタイをちぎられる」
などというあからさまな暴力であったり、さらには、
「低能だ。お前は人間のクズだ」
などという、
「言葉の暴力」
などを毎日のように浴びせられるとどうなるか?
それは、その人への、
「人格否定」
であり、
「全否定」
ということになる。
「全否定」
ということをされてしまうと、どこにも逃げ場がなくなってしまう。考えれば考えるほど、
「あいつがいうように、俺が、人間のクズなんだ」
とばかりに、否定的にしか考えられないようになり、次第に精神が病んできて、それが肉体をむしばむようになると、
「社会問題だけでは済まなくなる」
ということになるのだ。
未来は変えられる?
それらの問題を、
「コンプライアンス違反」
ということで、とりあえずの対策を取っているようだが、まったく変わっていないということは、
「結果として、何もやっていない」
ということであるという認識があるのだろうか。
今の時代は、
「少子高齢化」
「地球温暖化」
いや、
「地球沸騰か」
などという切実な問題があるのも分かるが、この、
「コンプライアンス違反による、精神疾患患者の増大」
という問題も、
「見逃すことのできない大問題だ」
といってもいいだろう。
それを考えると、
「人間のクズがどんどん増えてくる」
という悪しき発想に、政府は何とも思っていないとしか言えないではないか。
そんなことを思うと、
「過去であっても、未来であっても、理論的に代えるということは可能なのかも知れないが、実際にはできるはずのないことだ」
といってもいいだろう。
となると、
「代える」
ということは、不可能として、
「変える」
ということができるのか?
ということである。
こちらの変えるというのは、
「オールオアナッシング」
ということではなく、
「臨機応変に、変化、あるいは、変身できる」
という発想である。
つまり、
「代わるという言葉は、変わるという言葉の中に含まれる」
といってもいい。
ただ、
「代える」
ということが不可能だということが分かっただけに、
「変わる」
ということは、
「無限にではない」
ということの証明でもあるだろう。
そうなると、そこには、限界というものがあり、その限界が、
「どこかにある」
ということを証明しているということである。
「変わる」
ということは、全部が代わるわけではなく、
「一部が変わる」
ということであり、その一部が、
「変わる方なのか?」
それとも、
「不変の方なのか?
ということは、難しい問題であり、
「時と場合によって、変わる」
ともいえるだろう。
少なくとも、
「変わる」
ということは、その状態が不変ということではないということになるのであろう。
少なくとも、時系列において、
「過去が変わるということは、今が変わってしまい、当然のことながら、未来も違っている」
ということになるのであろう。