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対比する発想

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 という精神疾患のようなものが、考えられるという話がある。
 それを、20世紀という時代に、提唱された、
「カプグラ症候群」
 というものだというのだ。
 これは、
「自分の近しい、家族や恋人などが、いつの間にか、悪の秘密結社によって、入れ替えられている」
 というもので、
 20世紀半ばくらいに提唱されたものだというのを聞いたことがあった。
 そういえば、初期のアニメブームの時、特撮番組として実写化で放送されたものに、
「家族が、宇宙生物と入れ替わっている」
 という物語が途中にあったというのを聞いたことがあった。
 今なら、
「有料放送」
 などでは、普通に見ることができるので、その当時は、子供番組だったので、あまり意識をしていなかったが、
「あの話は、とにかく、怖いというよりも気持ち悪かったという発想の方が強かった気がするな」
 ということを、おじさんが話していたのを思いだしたのだ。
 そもそも、その頃の特撮であったり、アニメを見たことに感化されて、万太郎は小説を書くようになったのだ。
 だから、
「SF小説」
 であったり、
「ホラー」
 さらに、
「ミステリー」
 などが多いのは、そのせいだといってもいいだろう。
 アニメの中にも、
「カプグラ症候群」
 という意識を狙ったようなものがあった。
「国家の要人に、敵のエージェントが忍び込んでいる」
 というものだ。
 それも、大統領や、国王ではなく、副大統領であったり、国王を補佐しているような、重鎮であったりする。
 これは、
「カプグラ症候群」
 という精神状態を意識してのことなのか?
 ということを考えてみたりするのであった。
 しかし、見方によっては、決定的なこととして、
「国家元首が、やっていることだ」
 という風にしか、国民には映らない。
 すると、クーデターが起こった時は、その矛先は、国家元首に向くのだ。
 そうなると、国内が混乱し、秘密結社は、くーでたーを起こした方に、武器や、兵の提供をしたりして、それによってできあがった体制で、主要な部門に着けることになる。
 しかも、
「できたばかりの政権」
 ということで、やつらを蹂躙するのは、
「まるで赤子の手をひねるようなものだ」
 ということになるだろう。
 そう考えれば、まともに戦争をして、自分たちの被害を増やすことを思えば、クーデター軍を裏から組織して、彼らにやらせる方が、楽であるし、結果的に、
「漁夫の利」
 というものを得ることができるということになるのだ。
 昔の、大航海時代と言われた時代に、
「まず、キリスト教の宣教師を送り込み。国内を宗教でかき回す手段に出て、そのどさくさに紛れて、軍を派遣することで、その国を容易に、植民地とする」
 というやり方があったが、まさに、それに近いやり方である。
「どの時代であっても、政府転覆を狙うのであれば、それなりに、同じような常套手段がある」
 というものである。
 昔から、戦争というと、
「宗教がらみ」
 というのが、結構多いと言われている。
 それが、この大航海時代の、
「キリスト教宣教師による。クーデター煽動に近いのかも知れない」
 といえるだろう。
 それを考えると、
「カプグラ症候群」
 という考え方も、実は昔から存在していて、それを証明することをしなかったことで、最近になって言われるようになっただけのことかも知れない。
 考えてみれば、
「昔の戦争」
 というのは、
「スパイ合戦」
 と言われるほど、
「諜報活動」
 というものが激しかった。
 今のロシアがソ連の時代には、それはすごいもので、
「共産主義」
 の常套手段と思われていたのだろう。
 大日本帝国においても、
「ゾルゲ事件」
 というのが、有名だったが、日本も、満州や中国の主要都市に、
「特務機関」
 ということで、諜報活動を専門に行うところがあった。
 陸軍大学などに、そういう学部もあったくらいで、いわゆる、今でいう。
「情報戦」
 ということであろう。
「過去というものを果たして、変えることはできないのだろうか?」
 というのは、
「それが、そのままタイムパラドックスに直結するから」
 ということであろう。
「過去を変えてしまうと、今が変わってしまう」
 ということになるからだが、では、
「過去を変える」
 のではなく、
「過去を代える」
 と考えればどうであろう。
「すべてが違った過去」
 ということであれば、未来が変わっても、それがそのまま真実となるのではないだろうか?
「オールオアナッシング」
 という言葉があるが、世の中、
「100か0か?」
 という発想もありなのではないか?
 と思うのだ。
 これは、つまり、
「すべてが事実でなければ、真実ではない」
 という、
「100かそれ以外」
 という発想か、あるいは、逆に、
「0かそれ以外」
 という、
「有か、無か?」
 という発想かの違いである。
 よくよく考えてみると、
「どちらも間違っていないように見えるが、決め手には欠ける」
 ということになるのであろう。
 そんな考え方であれば、きっと、その人生、どちらにしても、
「俺の人生って何だったのだろう?」
 と感じることだろう。
 これは、自分だけでなく、ほとんどの人が思うに違いない。
 何も信じられない状態になり、疑心暗鬼になったり、猜疑心が強くなり、
「まわりが信じられない」
 ということの境地となる。
 そうなると、それこそ、
「カプグラ症候群」
 というものの、境地に陥るのではないだろうか。
「自分が信用できないことで、まわりが信用できない」
「まわりが信用できないどころか、自分までが信用できない」
 という、同じような発想であるが、その度合いの違いは、
「天と地ほどにある」
 といってもいいかも知れない。
 それが、
「人生を、そして、自分のまわりの世界が代わる」
 ということであり、ひょっとして、そんな世界が存在するとしても、ほぼ誰にも気づいていないだろう。
 もちろん、本人は気づいているのかも知れないが、
「誰に話しても、信じてもらえるわけがない」
 そんなことは当たり前のことであり。
「俺がそんなことをいえば、気が狂ったと思って相手にされないか。強引に精神科での隔離ということになるかも知れない」
 と考えてしまう。
 それは、昔の施設での隔離のイメージであり、昭和初期くらいの発想である。
「サナトリウム」
 という、
「結核専用の施設」
 というものがあったというが、まさにそこのイメージだ。
 昭和初期というと、
「結核という病気は、不治の病だ」
 と言われていた。
「結核に罹ると、治ることはない。何しろ、特効薬がないのだから」
 ということであった。
 しかし、戦後には、ストレプトマイシンなどの特効薬をはじめとして、どんど開発されたことで、結核も、
「不治の病」
 ではなくなった。
 今では、
「手術をしなくても、投薬で治る」
 と言われていて、もちろん、末期となれば、また事情は違ってくるのだろうが、少なくとも、
「不治の病」
 ということではなくなった。
「どれだけ特効薬というのが、伝染病には有効か?」
作品名:対比する発想 作家名:森本晃次