小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

人を呪えば穴二つ

INDEX|9ページ/18ページ|

次のページ前のページ
 

 ということを感じ、近所づきあいがなかなかうまくいかなかったであろう場合は、当然、公園デビューというのも怖いと思っていただろうから、うまくできたことで、
「安心して、自信も取り戻せる」
 というものだ
 ただ、最近は、
「ママ友」
 というのも、手放しに喜べない場合があった。
 あれは、同じ、このF県で、2年くらい前に起こった
「悲惨な事件」
 であったが。
「ママ友のせいで、子供が餓死してしまった」
 ということが発生した。
 元々は、明るい奥さんで、公園デビューもうまくできていたような奥さんだったのだが、その奥さんに目をつけ、洗脳することで、
「食い物にしよう」
 と考えていた、
「恐ろしいママ友」
 というのがいたのだ。
 内容はだいぶ忘れかけていた。何しろ、2年前の事件だったので、細かいところは、
「どこまでひどい女だったか」
 ということは覚えているが、一つ一つは曖昧だが、
「たいていの悪事は、行っていたことだろう」
 というのは間違いないことだった。
 何しろ、
「奥さんを洗脳して、ノイローゼにさせ、自分のいうこと以外を聞かないというように、コントロールされていたのだ」
 ということになると、
「子供のことが一番のはずなのに、いつの間にか、子供のことも、そのママ友にいちいち聞いて指示を受けていた」
 ということで、
「優先順位は、そのママ友が一番」
 ということになったのだ。
 その瞬間から、そのママ友は、ママ友ではなくなり、
「人を洗脳する犯罪者」
 ということになり、
「母親は、子供や家族のことは二の次で、この犯罪者女の下僕に成り下がった」
 といってもいいだろう。
 そうなると被害者は、彼女の家族であり、加害者は、犯罪者女であることに間違いはないが、この女ももちろん、片棒を担いていることで、
「いつ何が起こってもおかしくはない」
 という状態になっていたのだ。
 実際に、
「子供が餓死する」
 ということになった。
 子供の様子がおかしかったら、普通であれば、何があっても、救急車を呼ぶのが当たり前だろう。
 しかし、母親は、例のママ友を装った、犯罪者女に連絡を取り、指示を仰いだ。
「犯罪者女は、まずいと思ったのか、救急車を呼ぶことをやめさせたが、結果それが手遅れになって、子供が餓死する」
 という悲惨なことになったのだ。
 当然犯罪者女は、
「悪いのは母親で、母親が、育児義務を怠った」
 と言い張るのは当たり前だ。
 しかし、状況を見ている、
「ママ友仲間」
 は、大体のことは分かっているのだが、最初は、そのママ友が怖くて何も言えなかったが、さすがに、警察の捜査が進めば分かってくることだと思ったのか、
「私が言ったって、誰にも言わないでくださいね」
 と刑事にくぎをさしておいて、犯罪者女が、母親にしてきたことを克明に語ったのであった。
 しかも、彼女たちは次第に饒舌になり、
「聞きもしないのに、その犯罪者女の正体を暴露し始めた」
 ということである。
 聞いてみれば、そのひどさがどんどん分かってきて、さすがに慣れているはずの刑事も顔をそむけるほどになっていたのだ。
「実際に、こんな洗脳ということが行われているということは、聞いたことはあったが、ここまでとは思ってもみなかった」
 ということを、捜査員も感じ、
「刑事としてではなく、人間として考えると、はらわたが煮えくりかえるくらいになっていた」
 のだった。
 刑事もいろいろな裏付け捜査も、かなり行った。
 それだけ、
「正義感」
 というものを揺さぶられる事件だった。
 普段から、殺人現場などの、悲惨な現状を見ているはずの刑事だったので、なかなか、そんな悲惨な現状でもなければ、そこまで必死になることはないということなのだおるが、逆に、
「そんな恐ろしい事件が、日常茶飯事にあるわけではないので、そこまで、感覚がマヒすることはない」
 ということのようだが、どちらにしても、今回の、
「ママ友と称する極悪女に関しては、はらわたが煮えくりかえる思いだ」
 というのは、捜査に携わる人、全員の一致した意見ではないだろうか。
 もちろん、
「捜査に私情は禁物だ」
 というのだろうが、
「それも、時と場合によるものだ」
 ということであろう。
「警察官だって、人の親だったり、人の子である」
 というもので、
「人道に反するような事件は許せない」
 と思うのも当たり前。
 もっとも、そういう、
「犯罪を許せない」
 と思う気持ちが、事件解決に役立つわけなので、少々の感情はいいのではないだろうか?
 しかし、それはあくまでも、
「犯罪を憎むのであって、人間を憎んではいけない」
 ということで、
「罪を憎んで人を憎まず」
 という言葉があるが、それも、
「時と場合による」
 といえるのではないか。
 特に最近のように、
「簡単に許してはいけない犯罪」
 というものがたくさんある世の中、
「理不尽」
 という言葉が横行している。
「罪を憎むということは、その犯人も憎むということであり、少なくとも、人間の感情がなければ、罪は発生しないのである」
 といえるであろう。
「人を憎んではいけない」
 というのは、ある意味、
「魏弁であろう」
 といえる。
 中には、情状酌量の余地がある人だっているだろう。
 そういう人を憎んではいけないのかも知れないが、明らかに、自分の私利私欲のために、平気で人を殺すというのは、その人を憎まないで誰を憎むというのか。
「人を憎んではいけない」
 などという考えがあるから、
「罪を犯しても、憎まれることはない。うまくその場をやり過ごせばそれでいい」
 というくらいに思っている人もいたりして、その人たちは、
「憎まなければいけない人間」
 といってもいいだろう。
「人を憎まず」
 といってしまうと、
「犯罪行為を許すことになり、永遠に犯罪がなくならない」
 ということを示しているのだ。
「死刑廃止論」
 というものがあり、死刑にならない人がたくさんいるという、世界情勢であるが、本当にそれでいいのだろうか?
「悪いことをすれば、それを償う必要がある」
 ということで、
「犯罪の抑止」
 ということもあり、死刑に値する人間を死刑にしないという理屈が分からない。
 だから、情状酌量されるべき人が、普通に裁かれ、死刑になるべき人が、ならないというのであれば、これこそ、理不尽であり、2次災害としての、私恨からの、
「復讐殺人」
 というものが起こらないとも限らない。
「本当に死刑がなくてもいいのだろうか?」
「そんな議論は必要がない」
 と、最近は思うようになったのだ。
 この話は、センシティブでもあるし、
「なかなか結論が出ない」
 ということになり、話をすると、主義主張の力が近い状態であると、どうしても、
「平行線」
 ということになり、収拾がつかないということになるであろう。
 だから、本当であれば、立法としての、
「国会議員による、国会審議」
 にて行ってもらうのが、正当なのだろうが、
「頭が悪く、賢いといえば、狡賢いといえるような連中しかいない国会で、決められることが、本当に正当なことなのか?」
作品名:人を呪えば穴二つ 作家名:森本晃次