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人を呪えば穴二つ

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「人を殺す」
 であったり、
「強盗を犯して逃げている」
 という話であれば、
「逃げている」
 ということに引っかかって意識をすることはないからだ。
 ただの窃盗ということであれば、自分に直接関係のないことは、いちいち気にすることではないだろうが、これが、
「殺人」
 であったり、
「強盗」
 となると、
「一人を殺してるんだから、よくいうこととして、一人殺すも二人殺すも同じだといっているのと同じ」
 と思う。
 厳密にいえば、
「一人も二人も同じ」
 ということはない。
 当然捕まって、裁判にかけられると、動機であったり、殺人罪の多さであったりは、大いに関係があることだろう。強盗であっても同じことではあるが、一度その犯行を犯してしまえば、逃れることはできないのだから、そう思うと、必死になるのは当たり前ということで、
「最悪以外の発想をしてしまう」
 ということになり、結局、同じ犯罪を重ねるということになるだろう。
 一度、やったことで、度胸がつくということはある意味、同じなのではないだろうか?
 そんなことを考えると、
「犯罪というのは、重ねるごとに、感覚がマヒしてくる」
 ということになるだろう。
 かけ合わせて、求まった答えよりも、感じる思いが、
「深くなるか? 浅くなるか?」
 という違いになるのではないだろうか?
 それが、その時の心理状態でも違うだろうし、重ねて考えるということでも、変わってくるのではないだろうか?
 そんなことを考えてくると、自分が犯罪を犯しているわけではないが、
「犯罪者というものが、どういう心境に陥るのか?」
 ということもたまに考えてしまうというのも、実際には、
「ありではないか?」
 といえるのではないだろうか?
 それを思えば、
「犯罪というものが、どういうものなのか?」
 ということを、考えさせられるかのようで、不思議な感覚になるのであった。
 ただ、人それぞれということもあるようで、
「犯罪者というよりも、犯罪者について、考えたくなかったり、聞きたくないと思っている人も一定数いるだろうから、それらの人にかかわることをしないようにするのが一番いい」
 と思っている人には、敢えて話さないようにはした方がいいのかも知れない。
 人を殺すと、昔には、
「時効」
 というものがあった。
 と言われるが、それは、
「時効というものが一つだ」
 と考えているからだろう。
「昔でいうところの、人を殺せば、時効は15年」
 と言われていたものだった。
 実際には、15年の時効にもいろいろなパターンがあり、殺人罪で手配されたから、15年で時効を迎えるわけだが、一番代表的なこととして、
「海外にいる場合は、その間、時効の経過は停止する」
 というわけだ。
 日本で、
「見つからないように、潜んでいればいいが、海外に潜伏していれば、経過は停止する」
 つまりは、
「海外に15年いた場合は、まだ、時効までに、15年ある」
 ということと同じである。
 それは、
「日本の捜査権が、海外には及ばない」
 ということで、例えば、犯人の受け渡しにしても、
「条約を結んでいる国でなければ、逮捕引き渡しはできない」
 というものであったりと、結構いろいろな制約があるからであろう。
 さらに、時効というものは、
「殺人罪」
 だけに存在するわけではなく、それ以外の、ほとんどあらゆる犯罪にも適用されると言ってもいい、その中で、殺人罪のような、
「凶悪犯」
 と呼ばれるものは、時効というものを撤廃するということになったのだ。
 法律で、
「昔はあったが、今はない」
 というのも結構ある。
 憲法などのように、
「国民の総意の半分」
 などという必要はない私法と呼ばれるものは、
「三権分立の一点である、立法によってゆだねられる」
 その立法というのは、国会議員に当たるので、
「彼らが法律を作っている」
 ということで、大変な役目である。
 ただ、そういう意味で、
「国民が選挙で、国会議員を選んでいるのだから、そういう意味では、国民の総意といっても過言ではないだろう」
 ということだ。
 刑法の中で、
「昔はあったが、今はない」
 というものとして、気になっているのが、
「尊属殺人」
 と呼ばれるものであった。
 これは、一言でいえば、、家族や親せきなどの、自分に近しい相手を殺した場合などをいうわけで、その場合は、
「罪が増幅される」
 というものであった。
 親を殺せば、最低でも無期懲役などと言われていた時代があったくらいで、大日本帝国時代の、
「家族主義」
 といってもいいような時代であれば、ありえることだが、今の、日本国の民主主義においては、
「法の下の平等」
 ということで、家族だろうが、赤の他人だろうが、それで罪の量刑が変わるというのは、考えてみれば、
「おかしなことだ」
 といえるだろう。
 確かに、昔の、
「先祖代々続いてきた家」
 などという、いわゆる、
「家長制度」
 と言われるようなものがあった時代、そして、
「男尊女卑」
 と言われていた時代は、家長である、
「父親」
 つまりは、大黒柱が、中心だった。
 ただ、法律的には、親が子供を殺しても、子供が親を殺しても、何親等かということで、ひとくくりにされ、それを、
「尊厳」
 という言葉で大切なものという考えの下、そんな形で言われるようになっていたのだが、さすがに、時代に合わないということを言われるようになってきた。
 この、
「尊厳殺人というのは、父親が娘を蹂躙していて、娘が、このままでは殺されると感じたことから、親を殺した」
 ということに対しての、
「尊厳殺人」
 というものを認めるか?
 ということが問題になったのだった。
 もちろん、昔から、
「尊厳殺人」
 という制度はおかしい。
 と思っていた人も多いことだろう。
 それは、
「誰もが思っていたことかも知れない」
 とも、思えることで、
「大日本帝国の時代から、疑問を抱いていた人も多かったことだろう」
 それを思うと、この問題は、
「男尊女卑」
 という問題にもかかわってくる。
 今は、
「男女雇用均等法問題」
 ということで言われているのだろうが、
 20世紀の終わりころから、
「個人情報保護問題」
 あるいは、
「ストーカー問題」
 などと一緒に、一種の、
「コンプライアンス問題」
 と総称していえることのようになってきたのだ。
 そのどれも、昭和の頃には、あったかも知れないが、ほとんど言われなかっただろう。
 ストーカーというのは最近言われるようになっただけで、昔から、
「好きな女に付きまとう」
 あるいは、
「家を特定したくて、尾行する」
 などと言われることは、あっただろう。
 ただ、
「罪にならない」
 というだけで、本当は、被害者は泣き寝入りであったり、相手の気が弱ければ、睨みつければやめてくれた時代だった。
 今のように、粘着質になると、
「誰もがやっている」
 という錯覚に陥り、気が強くなるのか、ストーカーというものは、一向に減らないどことか、エスカレートしてきて、それを正当化しようとする意識が芽生えてしまったのかも知れない。
作品名:人を呪えば穴二つ 作家名:森本晃次