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人を呪えば穴二つ

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 それくらいのインパクトがないと、逆にいえば、この理論は、納得できるものではないといえるのではないだろうか。
 というのは、
「このことわざ以上に、実際に、何かがあって、それが証明となるという事実を、より強調させたい」
 という思惑でもなければ、
「どこまでが信憑性のあるものか?」
 ということになるかということであった。
 人間にとって、錯覚であったり、慣れというものが、
「感覚を狂わせる」
 ということは往々にしてあるものだ。
 特に慣れということになると、昔の寓話にあったような、
「オオカミ少年」
 という話に代表されることが起こるのではないか?
 ということである。
「このお話は、教訓というべきものに、さらに、何かが隠されているお話ではないだろうか?」
 と言われるものでもあった。
「ある村に、一人の少年がいて、彼は面白がって、大声で、オオカミが来たといって騒ぐことで、村人が慌てふためく姿を見て、楽しんでいた」
 というところから始まる。
 面白いもので、何度でも、
「オオカミが来た」
 といって騒ぎまくっていたが、さすがに何度も同じことでだまされてきたのだが、村人も途中から、
「どうせ嘘だろう」
 ということを感じるようになり、次第に、逃げることをやめ、慌てることすらなくなってしまった。
 そのうちに、
「確認する」
 ということもやめてしまい。その少年のいうことを、一切。聞かなくなってしまったのだ。
 それにより、村人は、少々のことでは驚くことなく、
「どうせ、またウソだ」
 ということを感じるようになり、今度は本当にオオカミが出たのに、誰も信じなくなり、結局、皆オオカミに食べられたというような話ではなかったか。
 ここでの教訓としては、結構いくつかあるのではないだろうか?
 一番先に考えられることとしては、
「オオカミが来た」
 ということを何度も言われ、それが嘘だということで、すべてを信じなくなったことではないか
 ということである、
 確かに、何度も言われ、それが嘘だということで、信じなくなったということがいわれるのだが、本当はそこではないように思うのだ。
 というのは、
「すべてを信じなくなった」
 ということが問題なのであって、そのために、
「最低でもしなくてはならないことを怠った」
 ということである。
 それが何かといえば、
「確認するということ」
 になるのである。
 嘘だと思って、
「逃げない」
 あるいは、
「慌てない」
 ということは悪いことではなく、むしろ、冷静になるのはいいことではないだろうか?
 しかし、肝心なことは、
「確認さえしておけば」
 という前提があってもことである。
「確認して、オオカミがいない」
 ということが分かればいいわけで、もし、それが勘違いであり、皆結果的に食べられたとしても、それは別の問題であり、このお話の場合であれば、
「確認さえ怠らなければ」
 ということになるのである。
 それが間違いだったというわけではない。少なくとも、確認をするという心構えがあれば、それでいいのだ。
 しかし、それが甘く、結果は一緒だったとしても、問題は、
「やり方」
 にあるというだけで、確認をするための、マニュアルのようなものがなかったり、その時のやり方に対しての周知徹底をしていなかったというだけで、最初の教訓のさらに奥の教訓ということになる。
 そういう意味で、この
「オオカミ少年」
 という話には、いくつもの教訓が重なり合っているのだといってもいいのではないだろうか?
 それを全体的にまとめると、
「思い込み」
 であったり、
「考え方の甘さ」
 などというものが、最悪の結果をもたらすには、実に簡単なことだといえるのではないだろうか?
 この場合のように、
「教訓」
 という言葉では済まされないという、最悪の事態になることだってあるということになるのであった。
「マイナスにマイナスを掛け合わせるとプラスになる」
 ということは、そのプラスは、掛け算が引き出す答えを倍加させるという意味でのと絶えになるのではないかと思える。 
 そういう意味での、
「火のないところに煙は立たない」
 という言葉を普通に聞くと、
「あまり、深い意味がない」
 と感じさせるかも知れない。
 しかし、この言葉の前半と後半とでは、
 前半が、問いかけであり、後半がその答えのように思う。
 しかし、どちらも否定ということにすることで、
「後半は答えというよりも、前半と同じレベルの発想を繰り返しているかのように思える」」
 とも感じるのは。
「言葉の織り成す錯覚ではないか?」
 とも考えられる。
 実際に、言葉だけを見ると、
「前半が問いかけ、公判が答えだ」
 ということを素直に感じるのだが、
「この言葉を導くため」
 の、もとになった事件などを考えると、
「後半は、前半の言葉をさらに深堀するかのような発想を感じさせる」
 ということであった。
 これは、
「オオカミ少年」
 という話を、どこかで想像させるのだが、それがどこからになるのか、正直意識していないと難しいだろう。
 かといって、最初から意識していたとすれば、その意識が、倍増させることで、却って、分かりにくくさせているという理屈が分かりにくいものとなるのだ。
「理屈ではなく、感覚だ」
 と、この言葉に関しては、今までそう思っていたと思っていたものが、いつどこで変わってしまったのか、考えていると難しく思えてくるところであった。
 だから、
「自分たちが知っている公務員」
 というものは、あくまでも、
「市役所の窓口」
 であったり、
「政治家」
 と呼ばれる連中のような、
「他人にどんな事情があろうとも関係なく、自分の最低限の仕事をしていればいい」
 ということであろう。
 いや、
「市役所の窓口」
 というような仕事であれば、
「最低限の仕事」
 というものをしているのだろうか?
 といえるのかどうかも怪しいところで、
「真面目に仕事をしている人だって、本当は、自分のことしか考えていないが、見た目は真面目に働いているように見えるだけ」
 という悪質なやつもいるだろう。
 しかし、あからさまなのは、公務員というもので、
「あいつらの仕事がどれほどいい加減か?」
 ということを、
「政治家を見ていれば分かる」
 というのは、それだけ、
「政治家というものが、立派な先生だと思われているか?」
 ということで、あいつらのような連中は、数学の公式ではありえない。
「プラスとプラスを掛けると、マイナスになる」
 ということになるのではないだろうか?
 それは、
「プラスのどちらかだけがマイナスだと考えれば、公式に当てはまるというもので、それだけ、
「人を騙すテクニックを兼ね備えている」
 といってもいいだろう。

                 第一の殺人

 人を殺して逃げているという人がいるという話を、最近聞いた。
 普通に、
「事件を起こして逃げている」
 という話だけでは、それほど、気になることはないだろう。
 それだけの情報では、まず、
「いちいち気にしない」
 ということになるだろう。
 なぜなら、
作品名:人を呪えば穴二つ 作家名:森本晃次