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人を呪えば穴二つ

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 と世慣れるものは、すべて、変格派と呼ばれるとすれば、実際に、このような異常な犯罪がまったく減らないということは、
「リアルで、変格探偵小説が描かれている」
 といっても、いいのかも知れない。
 そんなことを考えていると、
「極悪非道な犯罪は、平行線であり、なくなることはない」
 といってもいいのかも知れない。
「この世から犯罪というものがなくなることはない」
 というのは、どうしても、民主主義のように、
「貧富の差」
 であったり、差別はなくならない以上。犯罪自体はなくならないといってもいい。
 それは、世の中が、
「民主主義」
 である以上といってもいいだろう。
 それに、よく勘違いされることであるが、
 福沢諭吉の、
「点は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず」
 という、思い切りの理想像を描いているが、これは、本当の理想であり、実際にはありえないといってもいいだろう、
 そもそも、福沢諭吉が
「聖人君子」
 ではない。
 日本の将来というものを考えることで、
「他国への侵略もやむなし」
 といっているのだ。
 だから、決して戦争反対論者というわけではない。
「戦わなければいけない時は戦う」
 というある意味、当たり前の考え方の持ち主だというわけだ。
 考えてみれば、
「この世に最初から、平等などという考えは、ただの理想でしかない」
 なぜなら、
「生まれながらに平等だ」
 というが、それこそが、嘘ではないか。
 というのも、
「誰が、こんな家に生まれてきたいと思うのか」
 と、貧乏な家に生まれた子供は思うだろう。
 それを口に出すと、怒られるだろうから、口に出さないが、同じ時に、裕福な家庭に生まれた子供とは、
「生まれ落ちた瞬間から、差がついてしまっている」
 といっても過言ではないだろう。
 つまりは、
「金持ちの家に生まれてくれば、明日のごはんの心配を少なくともしなくてもいい」
 ということだ。
 しかも、時代によっては、
「金持ちの家の子供がちやほやされる」
 というのは当たり前のことで、それが学校だとするなら、
「学校に寄付してくれる家庭の子供は大切にしないといけない」
 というのは、社会的には当たり前ということになる。
 確かに、教育上は、
「すべての子供は平等だ」
 というが、それこそ、そんなものは、偽善でしかない。
 学校だって、公立であっても、
「生徒相手という客商売に違いない」
 売っているものが、
「教育」
 というものなだけであり、そのために、生徒という客であれば。
「高いものを買ってくれた人を、上客ということで、大切にするということは、経済学の基本ではないか」
 ということである。
 いくら、
「学問を教えるところだ」
 といっても、学校も、儲けなればダメだということだ。
 校長が、教育一番ということで、教育だけに舵を取っても、儲かっていなければ、責任を取らされるということになるだろう。
 経済学では、
「儲けを出さない企業は、罪悪だ」
 とも言われている。
 特に、
「企業は自分だけで商売をしているわけではなく、仕入先があり、顧客があることで、商売が成り立っている」
 ということで、
「自分が儲からず赤字を出せば、自社にかかわっている他の会社にも迷惑がかかる」
 というものだ。
 下手に潰れたりすると、かかわっている会社の中の零細企業と呼ばれるところはひとたまりもなく、
「連鎖倒産」
 という憂き目に遭わされるということになるに違いない。
 それを考えると、
「うちの会社は、儲け優先でいくしかない」
 ということになる。
 それは学校も同じことで、特に校長や教頭は、
「学校に起こった責任は、すべて自分たちが負わされることになる」
 と考えることだろう。
 そういえば、昭和の頃に一世を風靡した。
「熱血学園もの」
 という、テレビドラマが流行ったことがあった。
 これは、少し違い、
「校長は生徒の味方なのだが、教頭と、教頭の取り巻きのような腰ぎんちゃくの一教師が、学校のもうけを考えるのだ」
 というのも、
「教頭は、校長の椅子。一教師は、空いた教頭の椅子」
 というものを狙っているというのが、その構図だった。
 校長を悪徳にしてしまうと、主人公の先生を陰から助ける人がいないということと、校長にワンクッションを置くということにすれば、視聴者に、その構図が分かりにくいということがあるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「熱血先生もの」
 という青春ドラマは、結構当時の視聴率に貢献していたことだろう。
 ただ、相対的なものとして、アニメなどでよく描かれていた、
「熱血根性スポーツもの」
 というのも、同じムジナだといってもいいかも知れない。
 とにかく、
「熱血」
 という言葉が叫ばれた時代。
 今では信じられないという、
「根性論」
 ということで、
「根性さえあれば、なんでもできる」
 という無理強いの番組だったのだ。
 今であれば、一発、
「コンプライアンス違反」
 であったり、
「差別問題」
 ということに抵触するに違いない。
 時代背景には。まだまだ差別。同和問題がはらんでいて、
「貧乏な家庭に育った子供が、努力と根性で、プロの世界を目指していく」
 というものが、
「スポーツ根性もの」
 である。
 今ではなかなか見られないうさぎ跳びというのが、部活のシーンであり、部長などが、必ず、竹刀をもって床を叩いているというようなシーンが、毎回当たり前に写されていたのだ。
「その気になれば何でもできる」
 というのは、今の時代であれば、完全なパワハラで、まず、一発、
「放送禁止」
 ということになるに違いない。

                 巻き込まれた犯罪

 最近、ネットなどでの犯罪となると、
「人を巻き込む事件というのが多かったりする。
 詐欺事件においても、よくあるのが、
「受け子」
 と呼ばれる人たちの存在で、詐欺をしたグループとは関係がなく、ただ、
「金になる」
 と言われて、軽い気持ちで受け取りにいく連中である。
 考えてみれば、ニューズなどで、
「犯人を捕まえてみれば、受け子だった」
 というような話は飛び交っているのに、
「受け子をさせられる方も、なんで分からないんだ?」
 と考えてしまう。
 犯人を捕まえようとしても、そこにいるのが受け子という、ワンクッション挟むことで、犯人を特定できなくするということである。
 最近は、若い連中は特にそうかも知れないが、
「テレビ離れ」
 をしているといってもいいだろう。
 昔であれば、
「一家に一台のテレビ」
 などといっていた時代があったにも関わらず、今では、
「誰もテレビを見ない」
 という時代になったであろう。
 その理由はたくさんあるが、まず一つは、
「有料放送が始まった」
 という時代があったからだ。
 特に時代というと、
「ちょうど、20世紀末期の頃で、その頃になると、昔でいう、ゴールデン隊オムを中心として番組体系が変化してきた」
 というのが、昔であれば、ゴールデンタイムというと、
「野球などのスポーツ番組が多かった」
作品名:人を呪えば穴二つ 作家名:森本晃次