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歴史の答え

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「過去に行って、その場所からやりなおしたい」
 というところから始まっていることで、
「自分の過去を、未来を知った状態で、やり直すことができれば」
 という実に、
「都合のいい発想だ」
 ということからきているものだといえるのではないだろうか?
 だが、、この、
「タイムリープ」
 という発想は、本当に、
「都合がいい」
 といっていいものなのだろうか?
 確かに、
「未来を知っている」
 ということは、
「これほど都合がいい」
 といえるのではないだろうか。
 ただ、その知っている未来というのは、あくまでも、
「自分が知っている未来」
 というだけのことである。
 というのは、
「自分が見える範囲だけの、知りえる有限のものだ」
 ということであり。
 その未来というのは、
「自分の現在から考えられることの、
「最良」
 というものを、
「その時に判断したことから、未来が開ける」
 ということではないだろうか。
 だから、結果として出てきたことが、
「自分が考えた未来とは限らない」
 ということであろう。
「創造するはずの未来」
 というものと、
「想像した未来」
 というものは、必ずしも一致しない。
 時系列としてつながっている無限の想像と創造、そこには、中には、一致するものもあり、それを、
「成功だ」
 と考えるのであれば、それが、目指す人生の礎となることなのかも知れない。
 だが、その時は最良であっても、その先も、最良とは限らない。
 だから、想像した未来とはかけ離れた未来となっていて。
「あの時点から、やり直せたらいい」
 と考えるのであろう。
 ただ、それが、発想として間違っているということに、誰も気づかないだろう。
 というのも、
「あの時から人生が狂った」
 と感じている世界というのは、あくまでも、
「想像に対しての結果が表れた時だ」
 ということである。
 だから、その時からやり直すということは、
「狂ってしまった過去からやり直すわけであるから、結局、最良というものを目指してもそこには、自分の求めるものにたどりつくわけはない」
 ということである。
 つまり、
「本来では行きつくはずの未来を、最初に想像したところからやり直さなければ、また同じ創造物ができることで、何度やり直すことができるとしても、結果は同じことだろう」
 何しろ、大きな目的からは、道が外れているのだから」
 ということである。
 だから、本当に、タイムリープが叶って、自分のやり直したいところからやり直そうという発想になるのであれば、
「自分が戻りたいところの、想像するところからやり直さなければいけない」
 という自覚を持てるかどうかで、変わってくるというものだ。
 では、未来に向かってタイムリープをするということはどういうことなのだろう?
 タイムリープというのは、
「自分に、憑依する」
 ということである。
 つまりは、未来にいる自分が、憑依されるということを分かっているのかいないのか。それは、過去の自分にも言えることで、そうなると、元々、そこにいた自分の魂はどこに行くということになるのだろう?
「どうせ自分なんだから、未来の自分が乗り移ったって、別に、未来を知っている自分になる」
 というだけのことで、変わるものではないと言い切れることであろうか。
「あなたは、未来を知りたいですか?」
 と聞かれた時。普通は、
「知りたい」
 と答えるだろう。
 しかし、中には、
「知りたくない」
 と答える人もたくさんいる。
 その理由は、
「未来を知ってしまうと、人生が面白くない」
 と言われるが、確かにそうだろう。
「何歳で、病気、あるいは事故で死ぬ」
 ということが分かったとして、それを知りたいだろうか。
 確かに、知っていることは大切だろう。
 例えば、リアルな話になるが、
「定年後の年金生活になると、もし蓄えがあったとして、いくつまで生きるかということが分かっていれば、使い切るまでの計画が立てられる」
 ということで、リアルにありがたい。
 だが、逆に知ったことでの
「デメリット」
 として、精神的に、辛くなるのではないかということである。
 つまりは、
「余命」
 というものを知るということであるから、
「余命が分かっていると、どうしても、その間を意識せざるを得ないということで、果たして、生きる希望があるのだろうか?」
 ということである。
 まだ、
「30年ある」
 と言われたとして、その余命をいかに過ごしていくかということは、まだまだ先があるので、正直、
「余命を知らない」
 という官学と違い、精神的に余裕があるだろう。
 しかし、その余命にどんどん近づいていくことで、
「俺には時間がないんだ」
 ということに気づくと、その時の心境がどうであろう。
「未来が決まっているなんて、知らなきゃよかった」
 と感じるだろうか。
 それとも、
「余命が短いのだから、しっかりそれまで生きないと」
 と感じることができるだろうか?
 さすがに、今先刻されたというわけではなく、分かり切っていることを思い知るだけのことなのだろうが、
「余命というものを、本当に、まともに考えられないとするならば、本当に知らない方がいいだろう」
 もっとも、
「余命半年」
 ということが分かったとすれば、どう考えて生きるだろうか?
「どうせ、すぐに死んでしまうということで、お金を使いきるかのように、遊びまくって、残りの余生を、それだけに使うのだろうか?
 と考えると、情けなくなるのは、知らなければよかったということの裏返しになるのだろうか?
 かといって、
「何か立てた目標に行きつけるかどうか分からない」
 ということになった時、
「あきらめる」
 という心境になるかどうかも怪しいものだ。
 といえるだろう。
 総合的に考えると、
「知らぬが仏」
 という言葉は、まさにその通りだということになるだろう。
 やはり、
「精神的にきつくなったとすれば、それは、いくら自分が望んでいるということであっても、最終的に、自分のためにはならないことだ」
 ということである。
 と考えれば、そもそもの目的いである、
「あの時に戻ってやり直したい」
 と考えるのは、無謀だともいえるだろう、
 何といっても、まわりの大きな流れを知らないのだから、
「自分が変わったことで、まわりに与える影響がどういう程度のものなのか分からない」
 ということである。
 つまり、
「過去に戻って、過去を変えるということ」
 それが、
「タイムパラドックス」
 というものだ。
 ということになるわけなので、タイムリープというのが、本当に、
「タイムスリップにおけるタイムパラドックスの解決方法だ」
 ということには、なりえないといえるのではないだろうか?
 つまり、
「どのような考え方をしようとも、時間をさかのぼるということは、タイムパラドックスというものから、逃れることはできない」
 ということになるのではないだろうか?
 その考えがあくまでも、
「タイムリープ」
 という考え方を、否定的に思うことなのではないだろうか?
 ということになると、そもそもの
「タイムリープ」
作品名:歴史の答え 作家名:森本晃次