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歴史の答え

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 ということを悟ると、余計に、いらだちが深くなる。
 その矛先がりなに向いているだけで、実際には、
「いらだちを向けてはいけない相手」
 なのかも知れない。
「まさとを通してしか見ていないりな」
 という存在を、今度は、
「まさとの立場」
 から見ているような気がしていた。
 そこで感じたのは、
「合わせ鏡の理屈」
 であった。
 合わせ鏡の中央にいるのは、まさとであった。
 そして、まさとの正面に女がいる。そして、合わせ鏡の特徴とて、それぞれの鏡には、
「限りなくゼロに近い」
 という、無限のトンネルが続いているのだった。
 そこに映っている女が誰なのか?
 なるみは、
「自分であってほしい」
 と感じるのだが、その顔を確認することができない。
 ただ、もし確認できたとしても、その顔が自分だということを自覚できるであろうか?
 というのは、
「自分の顔をちゃんと認識できるか?」
 ということであった。
 普通、自分の顔は、
「鏡のような媒体を通してからではないと見ることができない」
 ということである。
 もっといえば、
「鏡を通すことで見ることができる唯一の顔だ」
 といってもいい。
 しかし、その顔は、絶えず左右が反転している。
「右義気の人には、左手が動いいぇいるようにしか見えない」
 ということであった。
 ただ、この
「当たり前」
 といえるような理屈が、
「りなに対しては通用しない」
 ということなのかと思えるのだ。
「自分というものは、特別」
 という考え方は、当たり前のように自覚していたはずなのに、その特殊性を打ち消す存在が、
「りなである」
 ということになれば、
「りなにとっても、なるみは、そんな存在なのかも知れない」
 として、
「りながそのことを自覚している」
 とすれば、
「りなという女も、私のことを見て、いらだちを覚えているのかも知れない」
 と感じた。
 いや、なるみとしては、そんないらだちを感じていてほしいと思っている、
「結局、どちらかが突出しているのだろうが、その自分にない部分を相手が持っているという感覚に、いらだちを覚えるのだ」
 となるみは感じていた。
 そして、自分が感じているのだから、
「りなも感じていることだろう」
 という感覚を持ったが、この感覚は、まるで、
「別人が同じ夢を見ているような気がする」
 ということで、
「どちらかの夢に、どちらかが、出演している」
 という感覚であった。
 だが、一人の夢というのは、無限ではない。限りがあるものだ。そんなことを考えていると、この場所で起こっている。
「もう一人の自分」
 というものの存在は、
「この部屋ででしか起こりえないことではないか?」
 と感じたのだった。
 ということになると、りなという女は、
「どこからやってきて、どこに消えるというのだろうか?」
 ということを考えていると、いろいろと思い浮かぶことがあり、
「りなという女は、本当は存在しておらず、架空ではないか?」
 とも考えられる。
 そういうことであれば、
「まさとが抱いた女というのは誰なのか?」
 ということになり、まさとが抱いたと思っているのは、なるみ自身であり、なるみに、抱かれた意識がないのが、その証拠ではないか?
 と考えるのだ。
 それをすべて。
「夢の仕業」
 ということで考えたとすれば、そこかに辻褄が合う、
「大黒柱」
 のようなものが存在していれば、この話が夢であったとしても、理屈は通るのではないかということになるだろう。
 そんな発想が、この、
「10分前の女」
 という小説の肝であった、
 発想もすごいが、発想がすごいだけに、
「ラストをいかに締めくくるか?」
 ということが難しい。
 ここまでラストをしっっかり覚えているのだから、それなりに素晴らしいラストだったに違いない。
 それだけ話はややこしく、辻褄を合わせるのも、一つや二つの理屈だけで済むことではなかったのだ。

                 探偵小説

 遠藤は、最近よく夢を見る。目が覚めてから覚えている夢はほとんどなく、夢というものを、
「気が付けば考えている」
 ということが多かったりした。
 それが、どういうことなのかというと、
「夢をどういう時に見て、どういう時に覚えているか?」
 ということであった。
「夢をいつ見るか?」
 ということについては、曖昧な感じがする。
「疲れている時」
 であったり、
「何か気になることがあった時」
 という時なのだろうと、漠然と感じるが、それは、微妙に、
「覚えている夢」
 というものと、ほぼ同じ感覚ではないかと思うのだ。
 つまりは、
「夢を見る」
 ということと、
「夢を覚える」
 という感覚は、相対していて、正比例に近い形のものではないかと思えた。
 ただ、正比例するということは、ある意味、
「平行線」
 ということでもある。
 正比例というのは、
「こっちが伸びていけば、相手も同じように伸びていく」
 ということで、基本的に、相手とは、
「交わることのない平行線だ」
 といってもいいだろう。
 だから、おいかけようとしても相手に追い付かない。そんなことを考えていると、思い浮かんできたのが、
「10分前の女」
 ということであった。
 そんなことを考えてると、
あの話も、
「10分前の女に絶対に追い付くことのできない女が、いろいろと先を歩く女のことを想像している話であったが、結局は、主人公の妄想でありながら、さらに、その部屋にいる男が、暗躍をしていた」
 という、双方からが絡む話ではなかったか。
 もちろん、小説なのだから、少々のフィクションは、
「盛った」
 としても、それはありなのではないだろうか?
 特にSF系の小説というと、その発想は、いくらでも無限にあることだろう。
 そもそも、宇宙に関しては、
「無限」
 と言われていた今までの感覚である世界が、今では、
「一個」
 という単位になるのである。
 いわゆる、
「マルチバース」
 と呼ばれる発想で、宇宙を今までの感覚としての、星雲くらいの単位にしてしまえば、本当に、
「たくさんの宇宙が存在する」
 と考えられる。
 特に、気になるのが、
「我々が今まで宇宙と呼んでいた世界と、同じ宇宙の間に存在しているものは、何なのか?」
 ということである。
 今までの、
「宇宙」
 という考え方であれば、
「宇宙の次に大きな単位として考えられる星雲と星雲の間は、いわゆる夜が広がっているというような世界を、一種の宇宙空間」
 といっている。
 つまりは、
「宇宙空間という大きな器があり、その中に、星雲であったり、ブラックホールであったり、サルガッソーと呼ばれるものが存在しているのではないか?」
 と考えていた。
 これは、実際に研究資料を見たわけではなく、
「SF映画」
 や、
「SF小説」
 などと言われるものからの発想であるので、天文学を研究している、
「お偉い博士」
 たちの発想ではない。
 だから、どうしても、
「星雲と星雲の間に広がっている世界というのは、あくまでも、夜の世界のようなものである」
 ということである、
作品名:歴史の答え 作家名:森本晃次