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歴史の答え

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 という感覚になるので、タイムループとは、違うものなのだるか?
 というのも、
「タイムループ」
 をするということは、
「一度その時代に行って、やってみるが、うまくいかなかったか何かで、またやり直してみる」
 というのが、
「タイムループ」
 という考えではないだろうか。
 つまり、
「タイムループというのが、スリップなのか、リープなのかということを考えた時、実際に起こりえる状況を考えられる」
 というものではないだろうか?
 タイムパラドックスというものが絡む場合に、
「ありえないことの実現」
 というものが、
「果たして、矛盾を生み出すのかどうか?」
 ということが、
「タイムパラソックスの考えではないか?」
 ということになるのだった。
「タイムパラドックス」
 というものは、一種の矛盾である。
「自分がタイムマシンで過去に行く、自分が生まれるということを阻止した場合。自分が生まれてこなくなる。生まれてこないと、タイムマシンに乗ることもなく、過去を変えることにはならない。ということは、自分が生まれてくることになる」
 というのが、いわゆる、
「タイムトラベルにおける、タイムパラドックス」
 というものである。
「時空のねじれ」
 ともいえるものとして、タイムマシンというものの、開発において、よく言われることとして、
「メビウスの輪」
 というものがある。
 それが、いかにタイムパラドックスというものを描いているかということになるのであろう。
「タイムトラベル」
 ということを考える時、
「不老不死」
 というものを考えた人がいると、タイムマシンをどのようにして活用するだろう。
 というのも、
「タイムマシンで、未来に行って。開発されているであろう、不老不死の薬と持ち帰ることにしよう」
 と考えた人がいるとするだろう。
 その時、
「果たして、未来において不老不死の薬というものが開発されているだろうか?」
 という考えである。
 理由はいくつかあるが、まず最初に考えられることとして、
「不老不死の薬など作ったら、薬が売れなあくなる」
 ということである。
 人というのは、
「年齢を重ねると、老化していき、寿命に近づくと、いろいろと身体にガタが来る」
 というものである。
 確かに気の毒ではあるが、
「それが、人間の寿命というもの」
 ということで、
「形あるものは、必ず滅びる」
 ということになるだろう。
 ということは、
「その時に、皆が薬を使うので、その薬を生産することで、薬屋が儲かるということになるのだが、それは、別に、
「非情なこと」
 でもなんでもない。
「自然の摂理」
 というものの中で、避けて通れないところであろう。
 まだ、弱肉強食ということで、
「他の動物に食べられる」
 ということでないから、いいことではないだろうか。
 それを考えると、
「寿命で死ぬのは、当たり前のことで、大往生が、人生の本懐といえるのではないだろうか」
 ということである。
「種族が絶滅する」
 ということと、
「一人の生物が死ぬ」
 ということにおいて、
「一つの命の重さ」
 というものに違いがあるのだろうか?
 これが、
「自然の摂理」
 ということであれば、死を迎えるのは仕方がないことになるのだろうが、その死というものが、本懐とは違うもので、たとえば、
「人間に捕まって、標本にされてしまう」
 であったり、
「人間が、私利私欲のために、戦争を引き起こして、敵国の人間を多数殺してしまったり」
 ということも考えられるが、
 たとえば、
「核兵器」
 のような、
「大量殺りく兵器」
 というものを使えば、そこで死ぬのは、人間だけでなく、動物、植物、すべての生き物に言えることである。
「人間という生物のエゴで、有無も言わさずに、殺される」
 その国にしか生存していない種族であれば、
「種族の絶滅」
 ということになるのだ。
 人間が核兵器を使うことは、
「人類を絶滅させる兵器」
 ということであるが、では、巻き込まれて死んでいってしまった動物たちは、誰も供養も何もしないということなのか?
 考えるとすれば、
「食糧としての生物」
 がいなくなり、
「食糧不足になる」
 ということで、あくまでも、
「人間中心の考え方」
 ということにしかならないのである。
 不老不死というものを考えた時、
「人間というのは、正直、未来に対してのことを考えるのは、政治家などの偉い人が考えることで、自分たちは、自分たちの時代を必死に生きている」
 ということである。
 だから、
「未来がどうなろうが、ほとんど気にしていない」
 ということになるだろう。
 だが、
「今のままいけば、自然破壊などが深刻になり、近い将来、人間が住めなくなってしまう」
 と言われていることは分かっているだろう。
 しかし、実際に今、
「世の中を動かしている」
 という世代は、
「少なくとも、あと40年くらい安全であれば、どうせ俺たちは死んでしまうんだ」
 ということで、いくら、世界が、
「地球温暖化問題だ」
 あるいは、
「sdgsだ」
 いわゆる、
「持続可能な開発目標」
 というものを掲げても、
「どうせ生きちゃいないさ」
 ということになるわけだ。
 だが、これが、
「不老不死」
 ということになればどうであろう。
「この世が今のまま、永遠に続く」
 ということであれば、別に、問題はないはずだ。
 しかし、
「今のままだと、数十年後には、平均気温が5度上昇する」
 などと言われると、彩桜気温が、40度超え」
 などということは当たり前ということになるであろう。
 それを考えると、
「不老不死」
 ということになると、嫌でもその時代を超えなければならず、苦しむのが分かっていると考えると、
「そんなものはいらない」
 と思えるのであった。

                 大団円

「タイムループ」
 というものを何度も繰り返していて、ある時、
「自分は何をやっているんだ」
 ということに気づくことがあるだろう。
 というのは、そもそも、
「時間を何度も繰り返したとして。その答えはどこにあるのか?」
 ということではないだろうか?
 もし、
「タイムループ」
 の回数に、制限というものがあったとすれば、
「限られた回数の間に、答えを見つける必要がある」
 ということになるだろう、
 ではそもそも、
「未来においての答えというのが、どこにあるのか?」
 ということを分かっている人がいるのだろうか?
 もっといえば、
「見つかる答えというのは、その人にだけ言えることで、他の人にとって、最悪の結果になることであったもいい」
 ということなのだろうか?
 そもそも、
「歴史を勝手に変えてはいけない」
 という発想は、
「一人のために、皆が犠牲になりかねない」
 ということからきているのではないだろうか?
 それを思うと、
「歴史を変えるということがどういうことなのか?」
 と考える必要があるということである。
 答えを探すということは、
「未来の果て」
 まで見ないといけないということになる。
 しかも、その答えというものが、
作品名:歴史の答え 作家名:森本晃次