小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

歴史の答え

INDEX|13ページ/17ページ|

次のページ前のページ
 

「老人になって、すぐに寿命で死ぬ」
 ということの方が、一番いいことなのではないか?
 という考え方だとすれば、
 逆に、
「死というものと向き合った時の発想」
 というころであれば、この話は、
「おじいさんになtった」
 というところで終わらせるのが、一番いい教訓なのかも知れない。
 ただ、これは、
「いろいろ経験を重ねた大人が見るものだ」
 とすれば、分かることだが、
「子供が見るおとぎ話」
 ということであれば、難しすぎるといえるのではないだろうか?

                 死なない死ねない

 浦島太郎の話だけではなく、このように、
「自分の知っている人が誰もいない世界で生きていくことが果たしてできるだろうか?」
 という発想がテーマとなっている小説や物語は、意外と多かったりする。
 考えてみれば、日本のおとぎ話であったり、昔からあるお話の中に、
「不老不死を目指す」
 という話は出てこないではないか。
 普通であれば、
「不老不死」
 というものは、生物にとっても、
「永遠のテーマであり、それが実現できないだろうか?」
 と考えたとしても不思議はない気がする。
 例えば、中国の小説として、有名なものに、
「西遊記」
 というものがある。
 これは、大まかな話として、
「一人の僧侶が、中国王朝である唐の国が、国が乱れて、国民が苦しんでいるので、それを助けるために、お釈迦様に言われ、天竺まで旅をする」
 という話である。
 その僧侶の名前を三蔵法師というのだが、
「その時に、猪八戒、沙悟浄、孫悟空という三人の弟子を引き連れて旅に出るのだが、その途中に潜んでいる、妖怪たちに襲われるのを、弟子たちの力を借りて、危機を乗り越えながら、旅を続ける」
 という話であった。
 途中に潜む妖怪たちには、
「言い伝え」
 というものがあって、その内容というのが、
「高貴な僧侶の肉を食らうと、不老不死の力を得ることができる」
 ということで、妖怪たちは、こぞって、やってきた三蔵法師の肉を食らおうとして、襲い掛かってくるのだが、皆、
「自分だけが、不老不死の恩恵にあやかろう」
 ということを考えて、他の人のことを押しのけてでも、
「三蔵法師の肉を食らおう」
 と考えるのだ。
 中には、
「お互いに共倒れのようになってしまったりするというオチが多い」
 ということなのだが、そもそも、
「どうして、不老不死がそんなにいいことなのか?」
 ということに疑問を感じないのだろうか?
 妖怪というものは、その時は協力したとしても、それはあくまでも、
「利害関係」
 によるものであって、一度敵対し、仲直りという発想にならなければ、
「情というものは浮かび上がってくる」
 ということはなく。
「自分さえよければ」
 という発想だけが残ってしまい、
「しょせんは、妖怪変化でしかない」
 ということになってしまうのだろう。
 それを考えると、
「妖怪というものの知能の低さ」
 を知ることで、
「どれだけ人間が偉いのか?」
 ということがいいたいお話なのかも知れない。
 つまり、
「不老不死を望むのは人間ではなく、妖怪にしかいない」
 ということになるのであろう。
 ただ、妖怪というものが、
「人間以外の動物の化身」
 ということであれば、
「人間が高等動物だ」
 という、差別的な発想があったとしても。それは無理もないことなのかも知れない。
 といえるだろう。
 それだけ、人間が、
「集団で生活しないと生きていけないのか?」
 ということになるのだろうが、これは、
「逆も真なり」
 ということで、
「集団で行動するということを意識しながら生きているということは、それだけ、本能としては、弱い」
 ということであるのだ。
 だから、人間は、知能が発達している。していないとまともに生きてもいけないということであり、
「野生では生きていけない」
 ということの証明でもある。
 本能が欠如していることで、そのかわり備わっているのが、
「モラル」
 であったり、
「倫理、道徳」
 というものなのだろう。
 他の動物は、そんなことを意識しなくとも、
「本能のままに生きる」
 ということが、生まれながらに備わっていて、
「自分の天敵が何であって。何に対しては気を付けなければいけないかということも、誰に教えられることもなく分かっている」
 ということになるのだ。
 世の中で、
「学習する」
 というのは、誰かに教えてもらうものではなく、自分で習得するものを、学習するということになるのであって、
「一から十まで教える」
 というのは、人間だけの特性ではないだろうか。
「教えないといけない」
 あるいは、
「教えないと、親の責任」
 というだけ、人間には、
「自己学習能力の欠如」
 というのが甚だしいということになるのだろう。
 しかも、
「自分の能力が他の動物よりも劣っている」
 という意識が、人間にはない。
「動物の中で、人間が一番偉い」
 という発想があるから、そのうちに、
「人間の中で、差別が生まれてくるのだ」
 ということではないだろうか?
「人間が、動物の中で一番偉い」
 という感覚を、まるで、それこそが、
「人間の本能」
 のようなものだと思っていれば、今度は、その中で、自分が一番という、
「自己顕示欲」
 というものが生まれてくるのだ。
 それは。
「人間の本能」
 ではなく、
「人間の本性」
 ということになるのであろう。
 不老不死というものを、追及する人たちには、どうしても、
「病気というもに対しての意識というものがある」
 という考え方もある。
 今の時代であれば、
「今の医学では、特効薬やワクチンなどは、開発されていない」
 ということで、
「病気を治すために、冷凍保存することで、開発された時に目を覚ます」
 というようなことが行われている。
 という話を小説に書いたり、ドラマ化したりしているのがあるが、それは、実際には、どこまでが許されるのであろうか?
 確かに、
「命を奪う」
 というわけでもなく、逆に
「今では助けることのできない命を、未来に向けて、命をゆだねる」
 ということをしようというわけである。
 その行為が、
「人間の尊厳」
 としての意識からであれば、推奨されるべきなのか、判断が難しいところであるが、
「将来命が助かる可能性があるのであれば、冷凍保存には、賛成だ」
 という医者が多いのか少ないのか、興味があるところであった。
 今の時代には、特に日本では、
「安楽死」
 というものは、基本的には認められていない。
 だから、
「本人の意思を伝える書類の存在」
 と、病状として、
「普通に目覚める可能性がほとんどない」
 と言われる時くらいしか、
「尊厳死」
 というのは認められていない。
 もっと言えば、
「生きている」
 としても、
「目が覚める可能性は限りなく低い」
 と言われる中で、高額なお金を使って、生命維持装置を利用することになるわけで、それこそ、借金をしたり、身体を売ったりして、金を稼がなければいけないわけだ。
 もし、
「お金がない」
 といっても、
「医療倫理に反する」
作品名:歴史の答え 作家名:森本晃次