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歴史の答え

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 ということにしておくが、
 そうなると、どうなるのかというと、
「前に映っている鏡だけを見ていると、まず、目の前に自分がこちらを向いてこちらを見ている自分が見えるだろう」
 そして、
「その鏡に映った後ろに、鏡が写っていて、その鏡には、自分の後姿が写っている。そして。その向こうにはまた鏡があって……」
 というように、
「どんどん小さくなっていく」
 という現象であるが、そのまま、無限に続いていくかのように、見えているのだ。
 しかし、これも理屈で考えると、
「絶対に、ゼロになる」
 ということはないといえるだろう。
 ここも、数学の数式になるのだが、
「数学において、除算つまり、割り算の答えが、ゼロになるということはありえない」
 という考えである。
 どんどん小さくなっていたとしても、それは、ゼロになるわけではないということで、これは数式でなくとも、一般的な理屈ということにしても、普通にあり得ることである。
「それを証明してみろ」
 ということであれば、さすがに数学者でもなければできないだろう。ただ、それでも、理屈が分かっているということなので、人間が、
「フレーム問題」
 というものに、陥らないというのは、この理屈があるからに違いない。
 ということは、
「フレーム問題の解決」
 というものには、
「ゼロ」
 あるいは、
「無限」
 というものの抹消。
 あるいは、
「それらのものを、それぞれの問題から隔離して考える」
 ということで解決できるものなのかも知れない。
 と考えられるのではないだろうか?
 かなり乱暴な考えであるし、
「今までいろいろな学者が考えてきたことを否定するかのようで、後ろめたい思いもあるが、これも、一つの考え方ということでありなのだろう」
 と思うのだった。
「マトリョシカ人形」
 というのも、
「人形の中に人形を入れて、さらにその中に人形を入れる」
 という発想なので、こちらも、
「無限に、どんどん小さくなっていく」
 という発想であった。
 それを考えると、こちらも、
「無限」
 というものと、
「限りなくゼロに近い」
 という発想であるということが分かるというものだ。
 それらが、
「ひょっとすると、フレーム問題というものの解決に一役買っている」
 といえるのではないだろうか?
 タイムマシンの発想として、一つ考えることとして、
「タイムマシンは、本当に、時間だけしか超えることができないものなのだろうか?」
 という発想である。
 少なくとも、
「5分先に飛び出す」
 という発想では、
「目の前にあるものが、一瞬にして消えて、5分後に、その場所に忽然と現れる」
 というのが、タイムマシンというものを、現象化させたものだということになるのではないだろうか?
 というのも、
「消えてなくなったものが、その後現れる」
 ということであれば、
「時間の世界に入っていた」
 ということにしてしまうと、
「理屈に合う」
 といってもいいだろう。
 もっと言えば、
「理屈というものだけで考えるとすると、アインシュタインの相対性理論というものが絡んでくるのではないか?」
 ということであった。
 というのは、
「物体は、光速を超えると、時間の進み方が変わってくる」
 という発想であり、
「光速を超えると、普通のスピードに比べて、時間の進み方が、ゆっくりになる」
 という発想である。
 これが、ある意味、
「タイムマシン」
 というものの発想としての、原点だといってもいいのではないだろうか?
 さらに、おとぎ話なので、
「浦島太郎」
 のような、
「竜宮城から帰ってくると、数百年経っていた」
 という発想である。
 浦島太郎の感じ方としては、
「2,3日だったはずなのに」
 ということであろう。
 人間が、どんなに楽しい日々を送れたとしても、それは、数日間でしかない」
 という発想が、その考えをつかさどっているのだろう。
 だから、
「そもそも、竜宮城での時間が、おかしかったのだ」
 という発想は誰からも出てこないではないか。
 そのように、ミスリードするように、描かれている話なのかも知れないが。その発想は、誰もが持っていても不思議がないのに、どういうことなのだろうか?
 だが、浦島太郎は、陸に帰ると、
「自分が知っている人、そして自分を知っている人がいない」
 ということに落胆し、乙姫からもらった玉手箱を、
「なぜか」
 開けてしまうのだった。
「開けてはいけない」
 と言われていたのにである。
 それこそ、
「見るなのタブー」
 の違反であり、人間が自暴自棄に陥ると、想像もしていないことをしてしまうということの証明ではないだろうか。
 それを考えると、
「浦島太郎」
 の話には、辻褄が合わないところが多いのだが、それはあくまでも、
「相対性理論」
 というものに対しての伏線だと考えれば、おかしな感覚が吹っ飛ぶのではないかとも思えるのだった。
 浦島太郎の話は、普通に伝わっている話であれば、
「大いなる矛盾がある」
 と言われることだろう。
 というのも、そそもそが、
「カメを助けた浦島太郎が、玉手箱を開けて、おじいさんになってしまう」
 ということであれば、普通に考えれば、
「理不尽ではないか?」
 と言われるであろう、
 というのは、
「本来であれば、おとぎ話というのは、教訓であるから、いいことをすれば、報われて、悪いことをすれば、罰を受ける」
 ということにならなければいけないはずだ。
 しかし、
「カメを助けたといういいことをした浦島太郎が、玉手箱を開けておじいさんになってしまう」
 ということは、理不尽でしかないだろうということである。
 だが、この発想がそもそも、
「間違っている」
 ということであって。
「突っ込みどころはそこではない」
 といってもいいだろう。
 というのは。
「浦島太郎が竜宮城から帰ってきた時、誰も知らない世界になっていた」
 ということが、そもそもの悲劇ではないか。
 誰もが、
「玉手箱の件」
 を、
「気の毒だ」
 と表現するが、そうではないといえるのではないか。
 もし、
「数百年経っていたというのが、仕方のないことだ」
 とおうのであれば、それは、
「おじいさんになるのも、仕方のないことだ」
 といえるのではないだろうか。
 というのも、
「自分が知っている人が誰もいない世界」
 ということがどういうことなのか?
 ということを考えないのだろう。
 その状況に陥った時、
「あなたなら、どう感じますか?」
 ということである。
 つまりは、究極の問題として、
「愛する人、かかわりのあった人が一人もいない世界」
 で、一人生きていくということになるのだが、その時に感じることとして、
「死んだ方がましだ」
 と考えるのが普通ではないだろうか?
 キリスト教などでは、
「自分で自分の命を絶つということは許されない」
 と言われているが、
「死ぬことよりも、恐ろしい世界において、生き続けなければいけないことは、まるで、何かの罰のようではないだろうか」
 それにしても、それが、どこから与えられた罰なのか分からないわけで、だったら、
作品名:歴史の答え 作家名:森本晃次