時系列矛盾の解消
「局所的特徴の変化が、見てとりにくくなる」
ということからきているのだという。
そもそも、逆さ絵という発想ではないが、
「鏡の錯覚」
というものもあるといわれている。
というのは、
「鏡に映る場合、左右は、反転して映るのに、上下は、逆さまにならない」
ということに対して、一度は、
「不思議だ」
と思ったことがある人も少なくはないだろう。
しかし、それも、一瞬のことで、
「それが当たり前だ」
ということで納得することが多いだろう。
それを納得させる説明にいくつかあるが、その一つとして、説得力を感じるのは、
「鏡に映っている姿が、本当は、正面を映しているのではないということで、後姿をこちらに向けているのが、自然だという意識があることで、本来なら、こちらを向いているわけではない人の姿を見ているからだ」
という発想であった。
これは、あくまでも、
「目の錯覚」
ということだけにとらわれることであり、それを、
「目の錯覚ではない」
ととらえることによって、そもそも、おかしいと思うことが、
「別におかしいわけではない」
ということになるのだということになると、理屈が、納得させるだけのものとなるということになるのではないだろうか?
目の前に映るものを。どのように考えるのかということを思うと、
「サッチャー錯視」
のように、
「錯覚を納得させるために、半ば強引な理論を組み立てたのではないか?」
と思えることは、往々にして多いのかも知れない。
だから、
「錯覚」
というのは、何も目だけではない。
五感すべてに、
「錯覚」
させる何かが備わっていて、それをすべて、
「目の錯覚だ」
ということで片付けようとするから、納得できることもできないように、錯誤されてしまうのかも知れない。
そんなことを考えていると、錯覚というものを、いかに考えるかということが大きな問題なることであろう。
錯覚というもので、一番わかりやすいのが、
「錯視」
というものであろう。
見ているものが、信じられなくなれば、それが錯視であるし、そのせいで、
「何が真実なのか、分からない」
ということになるだろう。
世の中には、
「事実と真実」
という考え方があるだろう。
ドラマ化何かのキャッチフレーズで、
「真実は一つ」
などといっているものがある。
ただ、これをまともに、つまり、
「一直線」
に見てしまう人がいると、そこは、
「真面目」
という言葉で解釈されることになるだろうが、
「真面目がすべてにおいて、正しいといえるのだろうか?」
ということである。
つまり、
「真実と事実というものを考えた時のことになる」
ということになるが、
「基本的に、事実は確かに一つである」
何が起こったとしても、例えば、
「誰かが殺された」
ということであれば、
「死んでしまったので生き返らない」
ということが事実で、死んだことの真相として、
「殺されたということで、警察が捜査に乗り出し、そこで、証拠であったり、証言から真実に近づこうとするわけであるが、殺されたということが事実であっても、その動機というものが、犯人が捕まったとしても、本当の動機を言わなかったとすれば、結局、
「殺された」
という事実に対して、
「その真実は、分からずじまい」
ということになるだろう。
中には、
「犯人をかばって出頭してきて、その人をそのまま起訴して、有罪になってしまったとすれば、結果、事実ではない方に事件が解決したということで、それを、真実だといえるのだろうか?」
ということになってしまうだろう。
だから、当事者以外が介入し、事件を見た場合、捜査員も、しょせんは、
「第三者」
ということになる。
事実から、真実に近づくことはできるかも知れないが、事実が真実と重なりあって、一つになるということが、実に難しいかということである。
だから、
「事実は一つしかない」
ということだが、真実というのは、
「証拠から積み上げられたもの」
ということで、犯人のトラップにまんまと引っかかってしまったということになるのだということであれば、表向きな
「真実」
ということで、それ以外に、
「事実から重ねられた、一種の状況証拠から導かれる真実」
そして、
「すべてを網羅するということで、心理的に矛盾のないことが、存在すれば、それが、本当の真実ということであり、ただし、それが、事実と寸分狂わぬ状況になるのかというと、
「そんなことはない」
ということで、
「一つの事実に対して、真実がいくつもある、
「といえるのであろうか?
ミステリーなどを見ていると、
「事実と真実」
というものを混同してしまうところがあるが、刑事が捜査を行う上で、また、犯人が事件を組み立てていくうえで、それぞれに、どこか、話が組み立てられないところがあり、それが絡んでしまうと、話が混乱してしまって、うまくいかなくなるのだろう。
特に、事件を計画する方とすれば、
「完全犯罪というのはありっこない」
と言われる。
しかし、逆にいえば、
「矛盾さえなければ、それが完全犯罪だ」
ともいえるわけで、
「下手に策を弄すると、そこから隙が生まれて、余計に完全犯罪などおこらないだろう」
ということになるのだった。
たとえば、密室殺人などを考えた時、
「本来であれば、密室殺人などを計画するわけではなく、誰かによって、殺された」
ということにする方が、一番しっくりくるのだ。
「殺人事件があって、被害者がいて、そこから状況証拠が生まれていき、その通りに事件の捜査が行われていけば、誰もそのことを疑うものもおらず、いくら、誰かが事実を言ったとしても、組み立てられたことが、真実に近いと判断されると、真実は事実と曲げて判断される」
ということになりかねないということになるのだ。
だから、密室殺人というのは、探偵小説などで、
「読者への挑戦」
ということであれば、話としては面白いのだろうが、そんなことはないわけであって、逆に、
「密室殺人」
というのは、
「密室の謎さえ解いてしまえば、事件の真相にたどり着くのは簡単なことである」
といえるのではないだろうか?
そういう意味で、探偵小説ではありえるが、実際の事件としては、なかなかないだろう。
と言われるものとして、考えられるのが、
「交換殺人」
というものである。
これは、ミステリーとすれば、ある意味、
「一番完全犯罪に近い」
といえるものなのかも知れない。
そういう意味で、探偵小説において、
「完全犯罪を構成することとしては、トリックというものを、最後まで読者に悟られないということで決まってくる」
といってもいいだろう。
つまりは、
「完全犯罪というものは、トリックを見抜かれた瞬間、終わってしまうという、一種のもろ刃の剣だ「
といえるものであろう。
「交換殺人」
というものにおいてもそうである。
なぜ、このような方法を使うのかというと、
「実際に動機を持った人間と、実行犯が違うということで、しかも、それぞれに交換して犯罪を犯すわけなので、お互いに裏切ることはない」