時系列矛盾の解消
「それぞれを、萩、牡丹」
と考えると、それぞれに、その目的が、
「彼岸」
というものにあるのだとすれば、
「春と秋」
に限定される。
そうなると、
「春が牡丹で、秋が萩」
と明確に分けると、
「同じものでも、名前を分ける必要があったのだ」
ということになるだろう。
言い伝えとして、
「餡の中に入っているものが餅であれば、ぼた餅であり。ごはんであれば、おはぎだ」
という人がいるが、実際には、
「おはぎも、ぼた餅も、もち米とうるち米を半々くらいに入れたものを適度につぶして炊いたものを、餡でくるむ」
ということであったので、餅の中に関係があるということではないのであった。
では、
「ぜんざいとおしるこ」
ではどうだろう。
こちらには、それなりに違いというものがあるということであるが、実は、それは、
「地域制で違いがあるようだ」
ということである。
つまりは、
「関西と関東で違いがある」
ということだ。
関東では、
「汁気がないものを、ぜんざいといい。汁気があるものをおしるこという」
ということであった。
その中でも、
「粒があるものを、田舎汁粉といい。粒がないものを、御膳しるこという」
というのであった、
では、関西はどうだろう?
関西での違いというと、
「どちらも、汁気があるもので、違いは、粒があるものが、ぜんざいで、粒がないものが、汁粉だ」
ということであった。
だから、関東の人と、関西の人が、この二つのことで言い争いになると、きっと、収拾がつかなくなることだろう。
「どちらも、正しい」
というのだから、それも当たり前ということである。
関西にしても、関東にしても、問題となるのは、
「汁気のあるなしか」
あるいは、
「粒が入っているかいないか」
ということである。
関東でも関西でも、どちらについても言及しているので、理解さえできれば、分かり合えることであろう。
ただ、昔から、どうしても、
「関東と関西では、言い争いのたねは尽きない」
ということで、
「理屈を言い合うと、なかなか決着がつかない」
ということになるであろう。
一つ言えることは、
「二つの相対的なものがあったとして、言われていることもそうなのだが、実はまったく同じもので、形状や性質によるもので分けれれているわけではなく、季節性というもので分かれているというものや、地域性で分かれているというものがあるという、民俗的な考えも考慮にいれる必要がある」
といえることが、
「往々にして多い」
ということではないだろうか。
それを考えると、
「記憶と意識」
というものも、普通では考えないようなことが、影響してくるのではないかと思うのであった。
一つ考えられることとして、
「記憶は、意識の中に封印されているものだ」
といえるのではないだろうか?
錯覚
坂上は、大学生になった頃は、
「真面目に勉強しよう」
と思っていた。
だから、授業も最初の頃は、真面目に受けていたのだが、大学というところ、
「自分から友達を作ろうとしなくても、友達は、勝手にできていくものだ」
ということであった。
一年生の頃、たまたま隣に座ったやつが、なれなれしいやつで、やたらと話しかけてくるではないか。
高校生の頃までは、そんなやつは相手にしなかった。
「どうせ、ろくなやつではない」
という思いと。
「放っておけば、どうせ、飽きが来るのか、相手してこようとはしないだろう」
という思いがあった。
何といっても、
「無駄な時間を過ごす」
ということに、敏感で、
「そんな暇があったら、別のことをする」
と考えることであろう。
大学生になってから、おぼろげに分かってきたことがあったのだが、
「年を取るにつれて、時間の感覚が短く感じられるものだ」
ということであった。
その感覚にも若干の違いがあり、それがどういうことなのかというと、
「小学生、中学生の頃」
ということで思い返してみたのだが、その時に感じたのは、
「一日一日というのは、なかなかすぎてくれないが、一週間はあっという間だったような気がする」
と感じていたという思いであった。
だが、それはあくまでも、
「その時の感覚」
であり、大学生になってからというもの、今度は少し感覚が違ってきたのだ。
というのは、
「一日一日があっという間だったのに、一週間が、結構長かったのではないか?」
というまったく逆の発想であった。
しかも、今から昔のことを思い出すと、
「自分が歩んできた時間の感覚よりも、相当昔だったような気がする」
というものだ。
つまりは、
「それほど時間が経っていないにも関わらず、気が付けば、相当昔のことだったように思うのは、ひょっとすると、時間を無駄に使ってきた証拠ではないか?」
と感じるのだった。
だから、余計に、
「年齢を重ねるうちに、時間の感覚が、どんどん短くなってくるようになるのではないか?」
と思ったのだ、
小学生の頃がやたらと遠いということは、それだけ、どんどん、感じる時間の感覚というものが、短くなっているという証拠になるのではないか?
と感じるのだった。
今から思い出してみると、
確かに、中学。高校と、短いのだが、それはあんまり関係のないことのようだった。
時間的な距離、つまり、
「想像を絶するような距離」
というものを考えた時、その発想の原点にあるのが、
「宇宙空間」
というものであった。
「無限に広がる宇宙空間」
というものが創造できるのだが、その中でも、
「地球と、太陽と、月」
という関係について考えてみると、分かりやすいだろう。
そもそも、宇宙という感覚は、太古の昔から、
「神秘的なもの」
と言われ、
ルネッサンス時代までは、誰もが、
「宇宙が動いていて、地球が静止している」
と思われていた。
それも、もっともだろう。
何といっても、地球人は、地表というものにしばりつけられていて、地上と言われる部分か、せめて、海の中に行けるくらいだったのだ。
空を飛ぶということもできなかった時代に、宇宙というものを創造するとなると、
「宇宙が動いていて、地球が静止している」
と考えるのも、当たり前というものであろう。
考えてみれば、今では空を飛ぶことが当たり前のように思われていたが、まったく空を飛ぶという概念がなければ、普通であれば、
「鳥のように飛ぶ」
と考えることだろう。
「鳥人間」
という発想になったとしても、それは、無理もないことであるだろう。
だが、考えてみれば、人間の感覚というのはおかしなもので、
「陸蒸気」
と呼ばれ、日本の文明開化に欧州から輸入した、
「蒸気機関車」
に対し、
「こんな鉄の塊が、動くのか?」
といって、恐ろしくて乗れない」
という人がいただろう、
だが、最初に、海や川などで、船を使った人は、当然のごとく、発明をしたのだろうが、これこそ、
「太古の昔」
からあったものだといえるのではないだろうか。
しかも、古代の四大文明と呼ばれるところは、