時系列矛盾の解消
であっても、その奴隷を支配している、
「領主」
であっても、同じではないかと思うのだ。
そうは分かっていても、
「どうなるものではない」
という
「あきらめの境地」
というものが、蔓延していることで、誰もが、反乱を起こすこともなく、
「理不尽だ」
という思いを強く持ったまま、その心境は遺伝していくのである。
その思いが、潜在意識となって、遺伝子に入り込んでいるのだろうか?
もし、それが夢を見せるのであると考えると、
「覚えていないという夢は、遺伝子の中にしかないもので、それは、記憶であり、意識ではない」
ということになる。
だから、
「初めて見る」
ということを理解できているのだし、
「思い出した」
あるいは、
「懐かしい」
という思いが、違和感となって、襲い掛かってくるのではないか?
そんなことを思っていると、
「舗装されていない道」
というものを、自分の何代前の人間から受け継がれているものだというのか?
それを考えると、
「臭いが確かあったな」
ということを思い出した。
そもそも、
「夢に臭いという概念はないはずだが」
と思うのであって、
「大学生になったとたんリセットできるこの感覚は、遺伝によって、引き継がれていた感覚であろうか?」
と考えたが、
「大学のまわりにも似たような道があるのではないか?」
と思えたのだった。
その時、子供のころに、そんな道を想像していたということを、今回の夢で思い出した。
子供の頃であっても、そんな道があるわけもなく、
「想像したとすれば、遺伝子のいたずらでしかないのではないか?」
ということも分かっていた。
子供の頃というのを思い出してみると、家の近くにある児童公園に、高校生になる頃までよくいっていたのを思い出した。
「思い出したといっても、数年前の記憶なのだが、その公園を懐かしいと思うと、そう思った時、かなり昔のように感じるのであった」
ということを感じるのだった。
ただ、思い出すのは、いつも、中学生の頃のことであって、小学生の頃は、そんなにでもなかったのだ。
小学生の頃に比べれば、その公園の広さに関して、中学生になったとたん、急に狭く感じたのだ。
その頃になると、成長期に入るのだから、当たり前のことだといえるのだろうが、実際には、そうではない。
もっと言えば、
「少しずつ、小さく感じるようになる」
というのが本当で、それが意識してではなければ、
「気が付いたら小さくなっていた」
ということで、小さくなっていくという意識がない間に。気が付けば、
「急に背が伸びていた」
ということに気づいた時、公園が狭くなったことにも気づくわけで、そもそもの、目線の違いということに、
「気づくか気づかないか?」
ということが問題なのだろう。
それを思うと。
「急に狭くなった」
と感じたわけではなかったので、身体の成長の度合いも意識していたということになるのだろう。
しかし、今から思えば、そんな状態だったということを覚えているわけではない。
だが、公園の目線というもので、狭く感じてきたということを意識すると、
「成長も意識していたんだろうな」
と感じたのだ。
だから、その意識というのは、無意識だったのかも知れない。
「潜在意識」
というものなのか、詳しいことは分からないが、その意識が記憶となって、感じさせるものなのではないかと思うのだった。
この公園は、ずっと、子供の頃と変わったという意識はない。遊具も、同じ場所にあり、別に、取り壊された遊具も、新しく設置された遊具もない。
そもそも、児童公園の遊具が、増えたり減ったりという方がおかしな気がするのは、
「その光景の記憶に、間違いがない」
と思うからだろう。
少しでも変われば、違和感満載で、見える角度が変わったとしても、
「まったく違う光景だ」
と最初から意識していたとすれば、それは、当たり前のことだという意識しかないことであろう。
それを思うと、
「児童公園を見渡していると、いつも同じベンチに座っていた」
ということをいまさらながらに思い出させる。
当たり前のことなのだろうが、その公園のベンチに座ってみると、
「いつも誰もいない光景」
というのが思い出される。
確かに、その場所はいつも空いていた。しかし、他に公園に誰もいなかったと感じる時の方が、むしろ少なかったような気がする。
小学生の頃は、よくその公園で遊んでいたという意識もあるし、その頃から、このベンチに座っていたという意識も残っている。
だが、公園で遊んでいたという記憶と、ベンチから見ていたという意識は別物であった。
「なぜ、別物なのか?」
ということを考えてみると、分かる気がした。
というのも、
「遊んでいる時というものが、記憶として格納されていて、ベンチで座っている時のことは思い出そうとすると、意識として感じるのであった:
ということである。
つまりは、
「動の時に感じることは、記憶として残り、静の場合は、意識として残っているのではないか?」
と感じたのだ。
これは、自分だけが感じることであって。他の人が感じるということと、少し違っているのではないかと思うのだった。
というのも、
「意識と記憶」
というものを、いかなるものなのかということを考えていたのだが、今回思い出した、
「舗装していない道のデジャブ」
というものが、
「どうして違和感がないのか?」
ということを考えた時。
「そもそも、公園は、舗装されていないではないか?」
と感じたからだった。
考えてみれば、スポーツを行う、
「スタジアム」
などという、野外競技場で、
「舗装されているものがあれば、恐ろしい」
という感覚である。
野球にしても、サッカーにしても、団体球技で、舗装されていれば、どうなるかということを考えると恐ろしい。基本的には、芝の上であったり、土のグラウンドというのが当たり前のものだと考えると、実に、
「人間というのは、無意識に、その状況を判断し、違和感のあるなしを感じるというものなのだろうな」
と感じたのだ。
だから、ひょっとすると、
「静と動」
という考え方ではなく、
「違和感のあるなし」
というものが、
「記憶と意識」
という格納方法に、別々の意識を感じさせるものではないだろうか?
と感じるのであった。
記憶も意識も、
「基本的に考えると、同じものではないだろうか?」
とも考えられる。
たとえば、
「おはぎとぼた餅」
というものがあるが、これを、
「別々のものだ」
と思っている人がいるだろう。
そして、もう一つ、
「ぜんざいとおしるこ」
この二つも、別々のものだと思っているだろう、
これら二つは、それぞれに、
「同じもの」
だということで、広辞苑に掲載されているのであった。
ただ、それぞれに、微妙に違うところの意識として、考えることをがあった。
というのは、まず、
「おはぎと、ぼた餅」
であるが、
「これをどうして、言い分ける必要があるのか?」
というと、これには季節がかかわっていたのだ。