時系列矛盾の解消
その臭いは、油の臭いだった。
それも、自転車のタイヤのチェーンのような臭いではなく、どちらかというと、
「暑くなった時に、身体にへばりついてくるような汗を感じさせるものだった」
という感覚であった。
夏になってから、感じるものだということなのか、それとも、汗が滲んだ身体に、まとわりついてくるあの感覚が、まわりの光景を、一つのものとして、創造させるものではないかということなのか?
どちらにしても、その発想は、いろいろあるだろう。
光景として浮かんできたものは、臭いから想像されるものではなかった。
まず、考えられることとして、油の臭いというと、
「木造家屋の中で、敷かれている、木の板に、
「油が敷かれている」
というような話を、聞いたことがあり、一度、鉄道博物館に行った時、
「昔の車両」
ということで展示されていた中が、ちょうど、木造の床になっていて。そこが、滑り止めなのか、
「油引き」
であったことを思い出したのだった。
その時は、
「おかしな床だな」
と思っていたのだが、その床から匂ってきたものが、夢の中で感じたものと、似ていたのだ。
といっても、小学生の頃の床はすでに、木造ではなくなっていて、そんな
「油引きの床」
だったなどということを、まったく知らなかったのである。
だから、実際の油引きの床というのは、
「交通博物館で乗った。展示されている昔の車両」
だったのだ。
交通博物館も、行ったのは一回きりで、結局、油引きの床を見たというのは、その時一回きりだったのだ。
それを思うと、
「どれだけ、その一回の印象が、すごかったのか?」
ということを示していて、
「油引きの床」
というのが、印象深かったのに、
「思い出したのは、違う光景だった」
というものだった。
まったく違う発想ということではなく、
「臭いが記憶を誘発した」
といっても過言ではないだろうが、
「意外と人間の記憶というのは曖昧で、思い込みというものが、記憶というものを作っているのではないだろうか?」
と、いえるような気がするのだった。
今までの記憶の中で、
「こんな感覚があったのか?」
と思ったが、それは、ちょうど
「目の前に広がる景色を、まるでフレームにはめ込んだ光景のようだ」
といえるのではないだろうか?
目の前にあるフレームを見た時、夢の世界が完成したような気がした。だが、それはあくまでも夢の世界。幻でしかないことは、見ている間に気が付くのだ。
ただ、その中で、
「何が気になっていたのか?」
ということに気づく。
というのは、最初に見た時、
「どこかで見たような」
と感じたからか、違和感はあるのに、どこに違和感があるのか分からなかった。
懐かしさだけがあり、その道を歩いていて、感じた油引きの臭いがどこからくるのかというと、家を囲っている塀にあることに気づいた。
そして、その塀から家を確認することができない。最初の違和感はそこだった。
一軒だけでなく、何軒ものことなのだが、どの家も屋根の部分しか確認できないのだった。
「ああ、皆平屋なんだ」
ということから始まった違和感だったのだ。
そして、塀の前をみると、溝があった、その溝の蓋は、木でできている。それこそ違和感であり、もっと違和感があるのは、
「道が舗装もされていない」
ということだった。
舗装されていないその場所を見ていると、
「そこが最大の違和感なんだ」
と感じた。
そして、
「懐かしい」
と感じた、その一番が、
「舗装されていない道」
だったのだ。
当然、歩道もなければ、白い線もあるわけがない、雨が降ればドロドロになるだろうし、そんなところを、車が走るであった。
今までの記憶の中で、
「舗装もされていない道」
というのを、見たことがあっただろうか?
正直、記憶の中にはなかった気がした。
もし、あったとしても、登山道であったり、車も通らないような、ところくらいしかありえない気がした。
そんな時代のそんな光景を、
「なぜ、いまさら思い出したかのように、想像することになったのだろうか?」
そんなことを考えると、
「ひょっとすると、こんなことを感じたのは初めてではないのかも知れない」
と思った。
つまり。
「以前にも、デジャブというのは何度も感じたことがある」
と感じただけで、それが、
「舗装していない道」
というものを思い出したからなのか、それとも、場所というのは関係なく、思い出した記憶というものが、たまたま今回は、
「舗装している道」
というだけのことだったのかも知れない。
ただ、だからといって、
「どんな場所でも思い出す」
というものではなく、心の中に刻まれたものだったのかも知れない。
そう思うと、自分の中でいくつか感じるのは、
「それが、自分の意識の中にある記憶なのか、それとも、記憶の中にある意識なのか?」
と感じるのであった。
自分の身体の中に、記憶も意識もあるとして、
「そのどちらかが、表にあって、その中にまたどちらかがある」
と考えると、一番しっくりといくような気がする。
しかし、記憶と意識という感覚は、少なくとも、
「優先順位のようなものがあり、優劣に近いものがあるのではないか?」
と考えるのであった。
潜在意識というものが、夢を見せるのだとすると、
「夢に近いのが、意識だ」
と言い切れるだろうか、
夢を見るのは、少なくとも記憶というものから、出てきたものだと考えると、
「記憶というものを、潜在意識に変えることで、夢というのは完成する」
といえるのではないだろうか。
それを考えた時、
「まるでプログラミングのようだ」
と感じた。
人間の言語で書かれたものを、機械語に翻訳することで、
「機械に対する命令を実現することができる」
というのが、プログラミングというものではないか。
そんなことを考えていると、ここまで見てきた夢から覚めそうな気がしていた。
つまり、
「夢の中にデジャブとして出てきた」
ということは、
「今、自分は夢を見ているのだ」
という当たり前のことを理解していなかったということであり、それを、
「目が覚める寸前になって理解した」
ということになるのであろう。
「夢というのは、目が覚める寸前の数秒に見るものだ」
というではないか。
その夢を思い出していると、
「今。自分は、夢と現実のはざまにいる」
のであって、目が覚めようとしていることに気づいたことで、
「目を覚ましたくない」
と思っていることを感じていた。
そして、その時に感じたフレームは、
「これからも、ずっと、夢の世界に入る時に、意識するものなのだろう」
と感じたのだ。
記憶と意識
目が覚めた時、
「ああ、目が覚めてしまった」
と感じた。
それを、
「現実に引き戻された」
と感じるということであって。引き戻された現実が。どのようなものだといえばいいのか、それを考えると、
「目が覚めたくない」
と思うのは、現実に引き戻されるという思いなのか、単純に、
「まだ寝ていたい」