時系列矛盾の解消
人間が理解して記憶できるのっていくつくらいなのか分からないが、自分で考えてみると、やはり、10歳前後くらいであろう。そうなると、戦後すぐが10歳ということになり、
「あの頃の記憶を残している人がいるとすれば、今は90歳くらいになっているだろう」
といえるだろう。
そうなると、普通に、記憶力が、衰えている年代なので、期待する方が悪いといってもいいに違いない。
今になって考えれば、確か、70年代と言われた頃に。
「戦争を知らない子供たち」
というような曲があったではないか。
時代とすれば、確かに、戦後ではなく、高度成長期を通り過ぎた時代だったのではないだろうか? 時代としては、
「ベトナム戦争」
の頃と、
「バッティングしている時期だったか」
と考えるのだった。
あれは、いつの頃だっただろうか? 今まだ、40歳に差し掛かろうとしている時期なので、知るはずのない時代の光景を、
「まるで、前に一度見たことがあるような気がする」
ということで、記憶の中にあるような意識を感じたことがあった。
いわゆる、
「デジャブ」
というものなのだろうが、間違いなく見た覚えはないのだ。
ただ、以前から、テレビドラマなどを見ていて、ミステリーなどで、よくある、
「数十年前の因果が、今の時代に報いている」
というような話として、
「戦後の混乱時期、できた子供の話などのドラマだったような気がするが、まだ、時代としては、占領期間中だったのではないだろうか?」
ということで、それが、その時代が主題だったのか、報いた現代が主題だったのかというのは覚えていないが、
「主人公が、若い頃という設定で、そのドラマの時代背景自体が、主人公が、すでに大人になっていた時代で、昭和の終わり頃ではなかっただろうか?」
ということであった。
戦後の意識というと、そのドラマの意識が強かったように思う。
だから、今の時代になってから、
「昔の時代」
と言われて、思い浮かぶ光景というと、
「占領軍が、街にあふれていて、女性が、外人の軍人に話しかけている」
というシーンが多かったのだ。
ただ、最近は、テレビドラマの再放送もめっきり減ったことで、テレビも見なくなった。
正直、テレビを見ることはあっても、何が楽しいのか疑問でしかない。
「ニュースをテレビで流していて、他のことをしていることが多い」
というもので、ニュースが終われば、バラエティ番組を流しているくらいであろうか。
ただ、最近のテレビの質の低下には、甚だしいものがあり、
「見るに値しない放送が結構多くなっているようだ。
しかも、
「テレビがある」
というだけで、某国営のような放送局が、
「受信料を払え」
という脅迫まがいのことが、社会問題となっているではないか。
そんな放送局を糾弾するというような政党も出てくるくらいで、それこそ、
「世も末だ」
といってもいいくらいになっているのであった。
だから、今では、
「テレビのない家」
というのが、結構あるという。
何といっても、昔は、家族に一台テレビがあり、
「家族団らんはテレビから」
と言われるくらいで、もっとも、チャンネル争いなどという茶番もあったが、それも、
「ご愛敬」
といったところだろうか。
とにかく、そんな時代は、子供番組、奥さんが見る番組、旦那が見る番組、老人が見る番組と、時間帯で分かれていたりした。そのおかげで、
「テレビがなければ、生活できない」
という時代だった。
今であれば、
「スマホのない生活など考えられない」
ということであるが、今のスマホでは、
「それ一台でなんでもできる」
ということであり、逆にいえば、
「スマホがなければ、何もできない」
ということの裏返しだといってもいいだろう。
それが、今の時代と、昔の違いとも言えて、テレビ全盛期を思い出す人も多いだろう。しかし、さすがに、東京オリンピックの時代を思い出す人は少ないというもので、その時代をテーマにしたマンガもあるくらいで、昔懐かしの時代の一つだったのだろう。
そんな時代を思い出しているわけもないのに、テレビで見た光景が印象的だった時、
「夢に見た」
ということもあったような気がする。
だが、テレビに見たことばかりではなく、
「見たことのないはずの光景を、夢に見た」
ということが、自分の中で、
「それが一度ではなかった」
という風に感じるのであった。
それが、いつのことだったというのか、それを思い出せないのは、無理もないことで、
「そっちの方が、普通なんじゃないか?」
と思うのだった。
夢というものは、
「いやなことほど覚えている」
というもので、それは、
「忘れたくないから、覚えている」
ということではなく。
「忘れることの方が怖い」
ということになるのではないだろうか。
それを考えると、
「どんな、忘れることの方が怖い」
というのか、裏を返せば、
「忘れたくないということとどこが違うというのか?」
と考えるのだ。
例えば、誰かと付き合い始めたとして、
「どうして付き合うようになったのか?」
と聞かれた時、何と答えるであろう?
「好きになったから、好かれたい」
と思ったのか?
あるいは、
「好かれたから、好きになった」
ということなのか?
ということを考えた時、まだ、誰かを好きになったことがなかった頃に、
「自分だったら、どっちだろうな?」
というか、
「どっちが自分にふさわしいだろう?」
と感じたものだった。
「普通だったら、好きになったから、好かれたい」
という気持ちが本当なのだろうか、
「好かれたから好きになりたい」
という方が、いいように思えた。
要するに、好きになるということよりも、先に、好かれたいという思いの方が強いということだ。
「どっちがいいのか。悪いのか?」
ということではなく。
「どっちが、好きなのか?」
ということであり。
「好かれたから好きになる」
という方が、いいように思える。
ただ、
「好きになったから、好かれたい」
という方が自然なんだろうけどと思ったが、
「それだったら、そういう相手を探せば、自分と合うのではないか?」
と考えるのであった。
それを思うと、
「人間の身体も同じ感覚なのかも知れないな」
と少し、卑猥な想像をするのだった。
夢に見たその光景を思い出していると、恋愛感情という発想になってしまったのだが、
「これが、いつもの俺なんだな」
と感じるのであった。
昔に見た夢を思い出していると、
「それが夢だった」
という感覚になった時、それを思い出せたような気がした、
「ような」
というのは、自分に最初自身がなかっただけで、思い出した時、その感覚が分かるのであった。
その夢、つまりは、光景というのは、
「するはずのない臭いというものを感じた」
というところであった。
しかも、その臭いを初めて嗅いだはずなのに、それが何の臭いなのか分かったということも、
「初めてのはずなのに、以前に見たことがある光景」
という感覚になった証拠ではないだろうか。