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時系列矛盾の解消

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年9月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。パンデミックについての主人公の意見は、フィクションでありますが、「正当場意見だ」と感じる人は多いと思います。

                 フレーム

「お金の使い方が分からない」
 あるいは、
「お金の価値が分かっていない」
 という人に、お金を持たせると、どうなるであろうか?
 そんなことを考えてみたことがある人はいるであろうか。
 世の中には、
「お金がないことで、どれだけ惨めな思いをしているというのか?」
 ということを身に染みて感じている人も、多いことだろう。
 もちろん、お金がないということの辛さが、どういうことなのかということを分かっている人はかなりいるだろう。
 本当であれば、道路わきに、茶碗を置いて、わらのようなものを着て、道歩く人に頭を下げてお金を恵んでもらうというようなことが、
「成功するのであれば、やりたいさ」
 というくらいに切羽詰まっている人だっていることだろう。
 しかし、まず成功することもないだろう。
 今の時代に、
「時代錯誤」
 だと思われて、無視されるのがオチであろう。
 もし、そのような姿を目にする人が多かった時代だったとすれば、例えば、親子連れが通りかかった場合、母親が、子供の目を塞ぐようなことをして、見せないようにしながら、自分は、
「見て見ぬふり」
 をしているふりをしながら、しっかり見ているくせに、その顔は完全に、
「汚いものを見ている」
 という顔であった。
 それは、母親として、
「うちの息子に、なんてものを見せてるのよ」
 という、子供をダシに使った。ただ。自分が不快だという思いを込めた、歪んだ心境だということである。
 つまりは、
「母親の、自分が感じたストレスのすべてを、目の前の男にぶつけて、解消させよう」
 という、自分勝手な思い込みといってもいいだろう。
 どうしても、戦後の混乱期いは、そういう人が多かった。
 何といっても、
「空襲で焼け出され、住む家もなく、親せきもいないことで、頼っていくこともできない」
 ということであったり、
「親せきがあったとしても、向こうにも生活があり、人を抱えこむだけの余裕がないので、いかにも、厳しく追い返すしかない時代だったのだ」
 といえるだろう。
「空襲で焼け出された人が、何か悪いことをしたのか?」
 といえば、そんなことがあるわけはない。
 なぜなら、
「無差別爆撃」
 なのだから、焼け出された人は、運がなかったということにしかならないということである。
 ただ、焼け出されなかった人も、ただで済むわけもない。
「住む家がある」
 というだけで、食料が手に入らないのは、誰も一緒のことだった。
 しかも、戦争が終わったわけではない。またいつ、空襲に来るか分からない。
 いや、敵国軍が、上陸し、都市を制圧し、まるで自分たちを奴隷のようにこき使うかも知れない。
 国民は、
「鬼畜米英」
 と教えられてきた。
「敵国の言葉を使うな」
 とまで言われ、士気の低下を恐れる軍は、国民に、敵国兵の残虐さを煽り、
「虜囚の辱めを受けず」
 とばかりに、
「自害する」
 ということを強制する、
「戦陣訓」
 というものがあり、
「捕虜になるくらいなら、自らの命を絶つ」
 ということで、青酸カリが配られたということであった。
 それを本土にいる国民に配ったということは、
「軍部は、最初から、敵国の上陸ということを、予測していた」
 ということになるのを、国民は気づいていないのだ。
 それだけ、軍部が行っている戦争に対して、
「臣民として、国家のために何をすべきか?」
 ということを常に考えるということで、教育を受けてきた。
 つまりは、
「天皇陛下や国家が国民個人よりも優先される」
 ということであり。
「国家がなければ、国民というものも存在せず、外国の無秩序な鬼畜に奴隷にされるだけだ」
 ということを植え付け、国民を煽ることで、いざとなった時に自決することを、強いたのである。
 時代が、
「もはや戦後ではない」 
 などと言われるくらいになってくるのが、戦争が終了してから、10年以上という年月を重ねることになるのだが、この10年という年月が、
「長いのか、短いのか?」
 どちらなのかということが、微妙な長さになるというものである。
 長さということを考えると、
「10年ひと昔」
 と言われる。
 今の時代の10年と、昔の10年」
 ということで、単純比較できるものであろうか?
 というのも、一番先に考えることとして、
「人間は、年を取っていく」
 ということである。
 どういうことかというと、
「人間は、年齢によって、その感じる期間が同じであっても、実際に経ってしまった期間を思い出すと。まったく長さが違って感じるものだ」
 ということである。
 というのは、
「20代になると、かなり時間が早くなるように感じ、それが30代になると、さらに短く感じ、さらに、40代以降になると、時間に対しての感覚がマヒしてくるようにさえ感じる」
 といえるのではないだろうか?
 ということであった。
 つまりは、
「年代によって、感じる時間の感覚が違うので、一人の人間が、歴史の中のどの時期を長く感じたり短く感じたりということを聞いても、意味がない」
 ということになるのである。
 しかし、今度は、別の人間に感じたとしても、それは、そもそも、考え方が違う人間なので、当然感じ方も違う、そんな人に聞いても、まったく違うのは当たり前のことであり、それこそ、本末転倒だ」
 ということであろう。
 ということになれば、それこそ、
「タイムマシンか何かで、タイムスリップして、その時間を味わう」
 ということでしか味わうことのできないことだろう。
 そういう意味で。
「このことを話題にするということ自体が、無理だということになるのではないだろうか?」
 ということになるのであろう。
 戦後すぐの時代というものを、普通に記憶している人が今の時代に生きているというのは、考えにくい。
 戦後すでに、75年以上が経っていて、もうすぐ、80年になろうとしている」
 ということである。
 つまりは、
「戦後すぐに生まれた人が、今は、80歳近い」
 ということになるのだ。
作品名:時系列矛盾の解消 作家名:森本晃次