時系列矛盾の解消
という思いがあったからなのかも知れない。
そう、以前勝った宝くじが当たったのだ。
「数千万という単位の金が転がり込んでくる」
ということであった。
ここまでくれば、ただの、
「あぶく銭」
というわけではない。
ただ、その時に感じたこととして、
「これでパチンコをやめられる」
と思ったことだった。
自分の中で思いつくこととしては、
「これ以上、とんちんかんなことはないだろう」
という意識だけはあったのだった。
同じ日を繰り返している
宝くじが当たったというのは、夢ではなかった。
「数千万」
という金が転がり込んでくるわけで、もっとも、そのうちのどれくらいになるのか、相当な数、税金で持っていかれることになるのだ。
「まぁ、税金で持っていかれるとしても、それでも、あぶく銭だということで、残ったものが最初から当たった金だ」
と思うことで、その心境は、別に金銭的に
「意識することではない」
と思っていた。
しかし、それでも、まだ働いたことのない人間が、いきなり数千万の金を手にしたのだ。どういうことかというと、
「お金の使い方を知らない人間が、大金を手にしたということには変わりはない」
ということであるのだが、なぜ、
「パチンコをやめられる」
と思ったのか、この思考回路が自分でもよく分からなかった。
お金が入ったら、
「パチンコし放題だ」
と思うのが普通であり、
「パチンコで、もっとお金を増やそう」
と思うかも知れない。
しかし、自分の中で、
「パチンコは、金にはならない」
と思っていることも事実で、意外とシビアに感じていたのだった。
基本的に、
「パチンコ屋は、客を楽しませながら、儲けるところだ」
という意識が強い。
だから、相対すれば、パチンコ屋が儲かるようになっている。
だが、すべての客から勝ちを奪ったとすれば、客も研究している人もいるだろうから、そんなことが、客に分かってしまうと、その連中はこなくなるだろう。
パチンコというのは、出なければ、あっという間にお金だけが、時間とともに減っていく。
つまりは、数十分で、一万円単位がなくなっていくといってもいいだろう。
そして、数時間でもやっていると、数回くらいは当たるだろう。そして、
「どれくらいか出て、いくらか回復する、そして、また当たらない時間を過ごし、当たると、回復する」
ということを繰り返すわけだが、それがパチンコだということで、時間が経過するごとに、
「無駄な疲れ」
というものが襲ってくるということになるのだ。
時間が経つにつれて、
「時間の感覚がマヒしてくる」
ずっとパチンコ屋に通っていた最初の頃は、その時間の感覚がマヒしてくるのを感じると、それがパチンコをしている時だけではなく、普段の生活や、学校生活の中でも、言い知れぬ疲れというもの感じたのだった。
「世界的なパンデミック」
の時期を過ぎる間、その感覚が薄れてくるのを感じていた。
確かに、あの頃は、精神的にも異常になっていたし、その異常な神経が、まるで、
「引きこもり」
のような感覚を作るのであった。
そんな中で、
「お金と時間の関係」
ということを考えた時期があった。
「お金がかかっていないとすれば、パチンコというものを、どれくらいの時間、楽しむことができるだろうか?」
という考えであった。
パチンコに興じるようになってから、その感覚は、
「刻一刻と変わってきている」
と思うようになっていた。
最初の頃は、
「一時間もやれば、頭が痛くなる」
と思っていたのだ。
何といっても、あれだけのうるさい中で、そのうるささに慣れていないということもあり、余計に疲れは、耳からも襲ってくるというものだ。
「体には五感というものが、備わっている」
ということで、
「視覚」
「聴覚」
「嗅覚」
というものが、直接的にはかかわってくることになるだろう。
「視覚」
としては、まず、大当たりをしないまでも、数十回転に一度くらいに訪れる、
「チャンス」
という煽りには、十分すぎるくらいの、視覚を刺激する演出がやってくるのだった。
これほど、疲労感を味あわせるものもないだろう。
「聴覚」
としては、それこそ、最初から最後まで、あの音に耐えなければいけないのだが、それを自分で、覚悟させることで、最初から、感覚をマヒさせるという心境に至らしめて、それを意識させないそんな感覚が、根底にはあるということであろう。
だから、この聴覚への刺激が、
「本来なら一番の辛さのはずが、慣れることを強要することで、さらに依存症を煽っているのではないか?」
と感じさせるのであった。
「嗅覚」
というものは、まったくないと思われがちだが、
「実は、絶えず、何かの臭いを感じている」
という感覚があった。
もちろん、タバコの臭いなどもその一つであったが、それだけではない何かが存在していた。
それが、他の視覚や聴覚の刺激によって架空に作られたものが、嗅覚を刺激することで、
「本来ならないはずの臭いを形成し、その臭いをもって、他の五感をマヒさせようというおかしな考えに至るのではないか?」
と考えるのであった。
そこには、
「循環性」
のようなものがあった。
循環しているものが何であるか分からないが、
「循環するということは、必ず限界がある」
ということを感じさせる。
そもそも、限界があるというのは、当たり前のことであり、いまさらながらに感じる必要もないことだということを感じさせるものだった。
「ブームというのは、周期をもって繰り返す」
と言われたもので、
「循環性のあるもの」
ということで感じさせられたものが、
「何かを繰り返す」
ということと、パチンコを結び付けているのであった。
ただ、パチンコへの依存というものと、その循環性ということに、何か関係があるということなのだろうか?
他の依存症と呼ばれるもので、
「ギャンブル」
であったり、
「買い物」
というものに、そんな循環性というものを感じることはなかった。
もっとも、
「他の依存症というものに、今までなったことがなかったからな」
という考えであった。
そんなことを考えていると、今度は、
「循環性」
というものだけを考えてみることにした。
そんなことを考えていると、以前に読んだ小説を思いだした。
しかも、その小説は、一度、テレビドラマ化し、映像にもなっていたのだった。
だが実際は、その映像化された作品の原作はアニメのようで、自分が読んだ小説がもとになっているのではなかった。
ただ、坂上が読んだ小説は、結構曖昧なところが多く、
「シチュエーションが同じなら、少々違っていても、同じような作品」
と考えるふしがあった。
だから、
「同じ作品だ」
と思い込んでしまったのも、無理もないことで、知らなければ、ずっと、
「その小説が原作だった」
と思い込んでしまったであろう。
それを思うと、
「その作品がどんな内容だったのか?」
ということを思いだそうとしても、
「相当ストライクゾーンが甘い」