時系列矛盾の解消
と呼ばれるところでも、その傾向はひどいもので、彼らからして、
「やってますアピール」
をするのだから、国民は、
「どこを見ていいのか分からなくなってしまう」
といえるだろう。
「確かに、与党にはかなわないだろうが、いかに政治政策という意味で、論議をしてくれることから、国民の納得のいく答えを出してほしい」
と思っている人が多かったのに、それが分からなくなると、結果として、
「政治に興味などまったくない」
という国民が増えてくるということである。
そんな政治に対しての問題を考えていた時代もあったのに、大学三年生になると、本来であれば、
「大人になった」
という成人式を迎えた年齢になったことで、
「酒は飲める、タバコを吸える」
ということであったが、
「酒くらいは嗜むが、タバコは吸わない」
ということだったのだ。
何といっても、タバコに関しては、
「パチンコ屋での嫌がらせ」
ということから、
「タバコを吸う人間に対して、嫌悪感があった」
ということである。
しかし、実際には、違和感があるのだが、それは自分だけではないということを知ったのは、それから少ししてだった。
特に今の時代は、
「タバコを吸う」
ということ自体が、罪悪と言われるような時代となり、
「愛煙家」
というのは、
「実に肩身の狭い思いをしている」
ということであるが、それ以上に、
「マナーの悪い喫煙者」
というものが、大いに社会問題になっていて、
あいつらからいわせれば、
「タバコが吸える場所がなくなってきた」
だから、ポイ捨てであったり、咥えタバコなどをするということであるが、それはまことに、
「本末転倒」
である。
今の時代においても本当の愛煙家は、マナーを守って吸っているのだ。
「一部の勘違い野郎が、せっかくマナーを守って喫煙していることで、嫌煙家とも仲良くしていけると思っているのに、あんな連中がすべてをぶち壊す」
ということで、
「俺たちが一番の被害者だ」
と、喫煙家はいうが、
「まさにその通りだ」
といってもいいだろう。
「俺たちが一番大いに迷惑をこうむっているんだ」
といっているだけに、マナーの悪い連中は、それだけで、
「罪だ」
といってもいいだろう。
ただ、パチンコにのめりこんでしまったことで、大学3年生という頃は、
「卒業のための、単位習得」
と、
「就活に対しての準備」
ということで、
「それまでになかった精神状態というものをいかに保てばいいのか?」
ということを考えるようになっていた。
そんな中において、その時は分からなかったのだが、
「お金の使い方」
というものが分かっていないと、いくら、お金があったとしても、それは、
「宝の持ち腐れ」
ということになることを分かっていなかった。
パチンコでも、昔からそうではないか。
というのは、
「たくさん勝った時は、厄払いということで、他の人に食事をごちそうするくらいのことは当たり前」
と言われている。
麻雀などでも、大きな手、特に役満などを上がって、トップになった時は、
「皆にごちそうしないといけない」
ということが、まるで、
「儀式」
のようになっているのだった。
それは、
「あくまでも、儲けはあぶく銭」
ということであり、
「勝った時にこそ、次回への期待と、厄払いを込めて、皆に還元するものだ」
ということである。
だが、なかなか、今の時代ではそんなこともできない。
「貯金しておこう」
であったり、
「次の軍資金としてもっておこう」
と思うのだろうが、
「それだけ、お金を大切にするのであれば、ギャンブルなどやめてしまえばいいのに」
という人もいることだろうが、
「それとこれとは別だ」
というに違いない。
あくまでも、
「遊戯として楽しむのであって、お金は後からついてくる」
ということであれば、
「儲かった時に還元」
という意識が芽生えてこないのも、おかしな気がする。
しかし、それは、
「お金がもったいない」
ということにもなるのだろうが、それよりも、
「お金の使い方が分からない」
といった方がいいだろう。
お金を使うということがどういうことなのか。果たして分かっている人がいるだろうか?
というのも、
「それが分かっているのであれば、分かっている人は少なくとも、お金には困らずに、人に施せるくらいになっているだろう」
ということで、とても、自分のまわりを見渡して、そんな状況になっている人がいるわけもないのだった。
「お金をもったいない」
と感じること、
「お金の使い方が分からない」
と感じることとしては、
「同じ目線で見てはいけないことなのかもしれない」
と感じるのであった。
それが、いかに、
「使えるお金を手元に持てるか?」
ということにかかわってくるのではないだろうか?
さすがに、まだ大学生の、
「これから就活を始めようか?」
という人間に、
「お金の使い方」
などが分かるわけはないだろう。
ただ、パチンコ屋で知り合ったおじさんのような人がいっていたのだが、
「パチンコをやって、勝ったり負けたりしていると、お金の使い方というよりも、いかに、負けないで済むか?? ということが分かるというものだ」
といっていたのだ。
「お金の使い方の話をしているのに、何、パチンコに負けないという話になるというのだろうか?」
と感じていたが、よく聞いてみると、よくわかるのだ。
おじさんの話のきっかけとしては、
「何かを始める時、いかに勝つか? ということよりも、いかに、うまく終わらせるか? ということの方が大切だ」
というのだった。
「どういうことですか?」
と聞くと、
「勝つかどうかということよりも、いかに負けないかということの方が大切なのであって、特に、戦争をしないに越したことがない相手と、どうしてもぶつからなければいけなくなった時、いかに、うまく収束させるかということが問題だ」
ということであった。
「勝った負けたといっていると、戦争は永遠に終わらない。一度勝てば、相手は、こちらに勝つための研究をしてきて、再度、こっちに喧嘩を売ってくる。こちらが、何の準備もしていなければ、すぐに負けることになる」
というのだ。
それを聞いて、
「なるほど、そういうことですね。お互いに相手を倒すまで戦って勝っても、今度は相手が、こっちを倒そうとするのだから、そこに終わりはなく、堂々巡りを繰り返すだけだということになるんでしょうね」
というと、おじさんは、頷いていた。
「昔の、東西冷戦の時、核開発競争というのが起こったけど、あれだって、相手よりも強力な兵器を作るということを目指してのものだったですよね。相手よりも強いのを作れば、向こうも負けじと作る。結局、どんどん強力なものになっていって、最後には、地球を、一発あれば、破壊できるほどの兵器になったかも知れない」
ということをいうのだった。
それを、おじさんは、
「堂々めぐり」
だといったが、その話を聞いて、坂上は、
「三すくみ」
ではないかと感じたのだ。