時系列矛盾の解消
ということになるのだろう。
それが証明されたということで、
「今の世の中、誰も信用できない」
と感じた人も多いことだろう。
政府は政府で困っている国民があるうのに、
「戦争をしているという他の国のために、我々の血税を勝手に送っている」
というバカげたことをしていた。
「そのために、物価が上がっているのを分かっているのか?」
ということであるが、
そこまでして、外国に媚を売りたいということなのか?
その証拠に、
「日本で何が起こっても、ソーリはいつも外国にいる」
というもので、
今のソーリは、
「国際社会の奴隷」
といってもよく、見捨てられた国民はどうすればいいのか?
何といっても、
「ここまで支持率が上がったり下がったりするソーリも珍しい」
といっている人が多いことで、今の日本が、
「亡国に向かっている」
ということは一目瞭然であったのだ。
そんな、
「世界的なパンデミック」
の時代がある程度収束してくると、経済も回るようになったが、坂上としては、それまでの生活とはまったく違う毎日を過ごしている。
というのも、
「人が多いところはいかなくなったし、いくら政府が、マスクをしなくてもいいといったとしても、誰がいうことを聞くものか」
とばかりに、とにかく、
「政府のいうことを聞かない方に、舵を取った」
ということである。
そんな状態において、坂上は、スーパーに行くのでも、
「24時間営業のところに、夜しかいかない」
であったり、
「駅でも、エスカレーターに乗ったり、エレベーターに乗らなければいけない場合は、2人以上乗っていると、次を待つなどした」
ただ、さすがに、都心部の百貨店ではそうもいかないので、どうしても、いかなければいいけない時は、
「開店直後」
であったり、
「閉店間際」
の時間に焦点を合わせるということをするのであった。
それを考えると、
「パンデミック」
というものの影響は、
「このまま下火になるということはないだろう」
と感じるのであった。
そんなことを考えていると、
「人間なんて、いつどうなるか分からない」
ということを感じるようになった。
やめられない
実際には、十数年前にあった、
「大地震」
というものがあった時代を思い出し、
「何をすればいいのか?」
ということを考えてみたが、結局、
「俺には、何もできることはない」
という結論に陥った。
中には、
「ボランティア」
で行こう。
という人もいたが、少なくとも、
「それだけの覚悟を持っていないと、足手まといになるだけだ」
ということは、テレビのドキュメンタリーで散々見たものだった。
確かに、ボランティアというのは遊びではない。
「行ってやっているんだ」
などと思っていると、他のボランティアに人に見透かされ、仲間外れにされてしまう。
「嫌々やるなら、邪魔になるだけだ、さっさと帰れ」
と言われるだけで、
「勇んで出てきたんだから、帰るなんて、みっともない」
などと言おうものなら、
「バカか、お前は」
と言われるだけである。
「話をするのも億劫だから、俺の目の前から消えてくれ」
と言われて、それで終わりだろう。
特に、それが、班長だったりなどすれば、そこには自分の居場所がないというものだ。
それこそ、
「病院にいけ」
と言われるのは必至だ。
本当に、精神疾患を病んでいるのかも知れない。
だからといって。誰も同情してくれないだろう。なぜなら、
「そんな神経で、よくボランティアに志願したものだ」
と言われて、それまでだ。
ボランティアというのは、必死でやっているので、本当であれば、被災者のために、全神経を向けなければいけないのに、
「何が悲しくて、ボランティアに志願した仲間のはずの人間の面倒を見なければいけないんだ」
ということである。
それを思うと、
「俺は自分のことも何もできないんだ」
と感じた。
それなら、
「せめて生きている間に楽しもう」
と考えたのだ。
パンデミック前に行ったパチンコに、また行き始めた。
「自粛警察」
というものに、やられた時、
「パチンコ屋ってかわいそうだな」
と感じた。
やはり楽しませてもらった以上、以前からパチンコをするのが楽しかった時のことを思いだして、
「パンデミックが収まったら、行こう」
と思っていた。
ただ、実際に収まってしまうと、以前とは、少し心境が違っていた。
やはり、
「人間なんていつどうなるか分からない」
という思いが先にくる。
そうなると、
「楽しまないと損だ」
と考えたのだ。
そうなると、思い出すのは、
「パチンコをしている時の楽しさ」
であった。
パチンコというのは、
「遊戯だ」
といっても、実際にはギャンブルである。
遊戯であっても、ギャンブルであっても、
「勝つ時は勝つが、負ける時もある」
というものだ。
そして、遊戯として楽しんでいる以上、それを与える方とすれば、その楽しみというのは、
「利益追求」
というのは当たり前のことである。
店が利益を得て、その利益をもとに、客に楽しみを提供できるのだから、
「店が儲からなければ、客に何も提供できない」
というのが、
「経済というものの、基本だ」
といえるだろう。
それを分かっていないと、パチンコのように、
「勝ったり負けたりする」
という理屈の中で、
「楽しむということができない」
ということになる。
それを考えると、
「パチンコをいかにして楽しむかということは、実際に、やらないと分からない」
といえるだろう。
「世界的なパンデミック」
の中での、
「緊急事態宣言」
において、
「自粛警察」
というものが、パチンコ屋を虐めていたのは、その理屈が分からないからだろう。
しかし、中には、
「お父さんが、パチンコに嵌ってしまって、給料を家に入れ倍」
などということも実際にはあったりするだろう。
ただ、最近では、共稼ぎも多く、奥さんの自立が当たり前のようになってくると、
「何もそんな旦那におんぶにだっこする必要はない」
ということで、
「離婚」
ということを考える奥さんもいるだろう。
旦那も、まさか、奥さんがそんなことを考えているということを知らずに、パチンコに興じていると
「気が付けば、離婚されていた」
ということになってしまう。
話し合いなどというのは、すでにできるわけもない。
奥さんとしては、何度も、
「危険信号」
というものを送っていたのに、
「パチンコに興じていた」
ということで、そのサインを見逃してしまった。
奥さんとすれば、そのサインを見逃したということが許せないのである。
「確かにパチンコをするのは、旦那の金だから悪いとは言わないが、家庭が暮らしていくだけの金にまで手を付けるということは、絶対にやってはいけないこと。それは、共有財産というものを、崩すことになる」
ということだと、いう奥さんの言い分である。
もちろん、協議離婚が成立すれば、それに越したことはないのだが、
「調停」