一人三役
ということで、心機一転、
「テナントに賭けた」
ということだったのだ。
要するに、
「自分の見る目が甘かった」
ということは、
「時代の流れ」
というものを見誤ったということであり。さらには、
「テナント経営」
というものが、テナント内において、競争意識をしっかりしていないと、簡単につぶされるということを分かっていなかったのだろう。
心のどこかで、
「まわりが、困ったら助けてくれる」
という、
「お花畑的発想」
があったに違いない。
まわりは、一店舗でも危ないところがあり、それが競合店であれば、助けるどころか、
「ここが勝負」
ということで、徹底的に、潰しにかかるかも知れない。
それを思うと、どれだけ、
「ぬるま湯にいたということなのか?」
ということを考えさせられる。
しかし、もうどうしようもない。
きっと、商店街を出ると決めた瞬間から決まっていた運命なのだろう。
そんなことを考えていると、今の自分の立場が、
「選択の岐路に立たされている」
ということが分かるというものだ。
というのも、
「ここが試案のしどころだ」
ということで、ちょうど、店をどうしようかを悩んでいるところであった。
とはいえ、
「本当は、入った瞬間から、その悩みはずっと、続いている」
といえる。
なぜなら、商店街にいるときは感じたことはなかったが、何といっても、
「自分は商売をしているのだ」
ということで、毎日が、本当は選択の日々だったはずだ」
商店街の時は、その時は、少し、
「売れない時期」
だったのかも知れないが、
「地の利」
ということもあって、売れないなら売れないだけの理由というものが、それなりに分かっていたというものだ。
だから、
「中期計画」
というものを、頭の中ではあるが、立てられていて、それが、何とか考えているようになっているのも、そこでずっと商売してきたからだろう。
当然、テナントに入っても、同じようなやり方をすることになるのだが、それは、逆に言えば、
「その方法しか自分にはできない」
ということで、実際にやってみると、その中期計画というものが、真っ白な状態であった。
これが、テナントとしてではなく、もし、別の商店街に移ったとしても、同じだったのかも知れないが、それだけ、
「場所を移る」
ということが、どれほど大変なことだというのかというのを、思い知らされた気がしたのだ。
商店街の方も、そんな仲間が昔はいて、今はテナントで頑張っていると思っていた。
漠然とそう思っているだけで、別に、
「裏切られた」
とは思っていないだろう。
「もし、彼らが成功したということであれば、商店街の他の人も、テナントに入ることを模索するようになるかも知れないな」
という意味で、
「本当は、成功してほしくはないな」
というのが、本音であった。
もちろん、
「商店街のことを考える」
ということからであって、そう考えるのは、ひいては、自分たちのためだということであった。
商店街というものが、その存在がどれほど大きいものかということを、出て行った連中は身に染みて分かっているだろうが、残って守っていこうと思っている連中に、そこまでの意識がないというのは、皮肉なことであっただろう。
商店街は、正直すたれてしまった。
「大型商業施設に客を取られた」
ということであるが、実際には、
「客はたくさんいるかも知れないが、客が皆、商品を買っていくというわけではない」
といえる。
むしろ、冷やかしというものも多く。ただ、それでも、
「冷やかしがいるから、買っていく人も多い」
といってもいいだろう、
確率からいけば、かなり購入率は低いだろうが、売り上げとしては、まぁまぁかも知れない。
だが、テナントとして、払わなければいけないお金もあるわけで、そこに見合うような売り上げなのかというとそうでもない。
そうなると、
「テナント」
ということが、相当なネックになっているということで、どうしようのない部分が多いのも事実だったであろう
そんなことを考えていても、売り上げが伸びるわけでもないし、何といっても、他の人たちのように、今まで、もまれてきたわけではないことで、
「どのようにすれば、売れるのか?」
というノウハウを持っているわけではない。
それを思うと、
「どのようにすればいいのか、分かるはずもなく、途方に暮れてしまい、思い出すのは、商店街のことばかりだ」
ということであった、
正直、
「昔の、よかった頃のことを思い出すようになっては、もう終わりだ」
と言われることも多いが、まさにその通りではないだろうか。
その頃になると、自分が店を畳んでいるというイメージが頭に浮かんでくるのであった。
「ああ、何のために、皆を裏切ってまで、こっちに来たのだろう?」
ということである。
本当は、そんなことを考える余裕などないはずだが、それでも、考えるということは、それだけ頭が回らないということなのだろうが、それが、
「現実逃避だ」
ということになるのだろうが、現実逃避というものが、意外と心地よいということに気づくのだ。
中にはやけくそになって、店のことは従業員に任せて、遊び歩き、結局借金を増やす人もいるかも知れない。
本当に、
「パチンコ屋に入り浸る」
という人もいたというのも聞いたことがあるが、店を畳んだ時、どれほどの負債となったのかということまでは分からない。
「自己破産」
ということで、もう、店を営むことをあきらめた人もいることだろう。
仕事もせずに、ホームレスになったという人もいた。
考えてみれば、
「どれだけ、落ちるんだ?」
ということで、下ばかり見ていて、底なしの沼に嵌っているということを、自覚してしまうことになるだろう。
ただ、上を見ると、空はいつもそこにある。その空というのは、絶対に掴むことのできないところにあり、それを思い知らされるのが、底なし沼の底辺になかなかたどり着かないということであろう。
結局、毎日のように、売り上げとの闘いで、中間計画も立てられず、目の前の日々のことだけで精一杯になる。
そんな、
「五里霧中」
の中で、どうすることもできずにいると、自分が、
「現実逃避の中にいる」
ということを感じてくる。
本当に逃げているということが、ギャンブルなどのような形になっているものではないので、なかなか気づかないのだが、形になるものは、何が恐ろしいといって、
「依存症」
というものと背中合わせになっていることだった。
それは、普通に楽しんでいるという人にも言えることであるし、
「現実逃避」
という目的がある人であっても、同じことだ。
誰にでもある依存症であるが、その程度に個人差はあまりないだろう。しかし、その依存症になるきっかけが、皆違うので、出てきた結果は違っている。だから、
「依存症」
というのは、
「現実逃避」
というものから入った人にはかなわないと思っているのではないだろうか?
依存症となって、完全に破産するしかなくなった人も多いだろう。
「パチンコなんかやめて、仕事に集中してよ」