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破滅に導くサイボーグ

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「孤独なのかどうか?」
 というのは、疑問に感じさせるというものである。
 確かに、
「卑怯なコウモリ」
 という話は、
「獣と鳥が戦をしている」
 という場面であるから、
「1対1」
 ということではなく、人間の戦のように、数百、いや、数戦という軍隊を形成していて、しかも、
「鳥という分類」
「獣という分類」
 ごとに隊を組んでいることだろう。
 しかも、その組み方も、
「種族事態に、差別化されていて、たとえば、獣の中で、王としては、ライオンがいて、その下には、トラがいて、というように、種族ごとで、ランクが決まっているのかも知れない」
 といえるだろう。
 さらに、
「同じ種族の中で、さらに、階級が分かれているとすれば、戦のやり方は、人間とはかなり違っている」
 というもので、その戦のやり方が、
「コウモリをいかに巻き込んだのか?」
 ということになる。
 つぃまり、ここでの
「コウモリ」
 というのが、本当に、
「一匹だったのか?」
 ということを考える。
 もし、一匹だったとすれば、
「この一匹のコウモリのために、他のコウモリが、他の動物の目に触れないような生き方をしなければいけなくなった」
 というのであれば、あまりにも理不尽である、
 人間社会でいえば、
「連帯責任」
 ということであり、ここでいう、
「軍隊方式ではないか?」
 ということになるではないか。
 そもそも、これが
「一匹ではなく、コウモリの中の一つの種族だ」
 としても、すべてのコウモリがそうだというのは、理不尽である。
 と考えると、
「コウモリの中には、別に、隠れてすまなくてもいい種類があるのかも知れない」
 といえるのではないだろうか。
 つまり、
「コウモリというものを、すべて卑怯なコウモリと同じなのだ」
 ということで、必要以上な距離感をもって見るということが、
「そんな、一つの偏見のような見え方になってしまったのではないか?」
 と考えると、
「あくまでも、コウモリの世界を、本当に、人間の尺度というものだけで測ってもいいのだろうか?」
 とおうことになるのである。

                 秘密の伝説

 鮫島教授が研究をしようと訪れたこの村に伝わる伝説の話は、前章で行った、
「オオカミ男」
 と、
「吸血鬼ドラキュラ」
 のような話の合わせ技であった、
 そもそも、これが、
「日本古来から伝わるおとぎ話ではない」
 というところが面白いところであった。
 そもそも、
「おとぎ話というのは、考えてみれば、各地に伝わる、口伝というものが、それぞれの土地に伝わっていて、それらを編集して作られたのが、おとぎ話と言われている」
 ということであろう。
 だから、
「似たような話が、いろいろなところにあり、浦島伝説であったり、桃太郎伝説という話も伝わっている」
 ということであろう。
 これが、恐ろしい話であれば、怪談などということになり、
「柳田国男」
 による、
「遠野物語」
 であったり、
「小泉八雲」
 の、
「怪談」
 というものが、その最たるものであろう。
 おとぎ話にしても、怪談のような、ホラー的なものであっても、そこには、教訓のようなものが存在していて、それぞれに、
「有名な物語」
 として、編纂されるというものである。
 子供向けということで、西洋などでは、
「イソップ寓話」
 であったり、
「アンデルセン」
 であったりである。
「寓話」
 と呼ばれるものは、何かの比喩を行うことで、最後には、教訓としての話にもっていくということを意図したものだということで、有名なものが、
「イソップ」
 ということになる。
 ただ、これを
「寓話」
 というものにある、動物などが、
「神様と人間の関係」
 ということになると、そこにあるのは、
「神話」
 と呼ばれるもので、
「ギリシャ神話」
 などがそのいい例であろう。
 しかも、出てくる、
「オリンポスの神々」
 というのは、いかにも人間らしいということで、嫉妬であったり、神様であっても、人間が抱く、マイナス面にある感情が表に出てきていて、まるで、
「神を擬人化している」
 といえるであろう。
 さらに、宗教における、
「聖典」
 と呼ばれるもの、特に、
「聖書」
 なども、その一つだといえるであろう。
 この村のように、
「満月になると不思議なことがある」
 ということで、最初に聞いたのは、
「この村で満月に不思議と子供が生まれるのが集中し、そおほとんどが、男の子だ」
 ということであった。
「そんな不思議なことがあるんだ」
 ということで調べに来たのだが、もう一つ不思議な話を聞きつけたことが、
「この村にきて調べてみる、きっかけになった」
 ということであった。
「それが、どういうことなのか?」
 というと、
「この村においては、一日一日が、短く感じられるのに、一週間などという単位になると、急に長く感じるのだった」
 というのだ。
 というのも、
「一週間と、一日の長さのどっちが、自分で正常に感じるのか?」
 と言われると、本人としては、
「一週間だと思う」
 ということであった。
 それも、教授が自分で、そう感じたことで、最初の、一週間と一日の違いの感覚だけは、この村に入るきっかけとして聞いたことだったのだ。
 鮫島教授は、基本的には、
「民俗学の研究」
 が専門分野であるが、好きなものとしては、
「SF的な感覚」
 というものであり、時間の長さの感覚が、その見方の幅によって違っているというのが、気になるところだったのだ。
 その、
「SF的な感覚」
 というのは、この時のように、時間の感覚にずれがあるかのような時間幅を、
「SFチックな発想だ」
 ということで考えると、
「自分で納得がいくまでその回答を探ろうとする」
 のであった。
 今までの中で、今回のようんい、
「一日であったり、一週間などという単位で、時間を区切る」
 ということを、日ごろからしてみるのが、癖のようになっていたのだ。
 特に、子供のころには結構やっていた。
 小学生と中学生の間で、かなりの感覚にずれがあると思っているのだが、その間には、
「思春期」
 というものがあり、それが、大人と子供を隔てているといってもいいだろう。
 しかし、
「中学と高校生の差」
 ということになると、こちらは、
「義務教育と、そうでない世代」
 ということになり、その違いは、
「年齢的な差ではない」
 のであった。
 年齢的なものとしては、どうしても、法律に書かれているものであり、
「児童というと、13歳未満、未遷延というと、二十歳未満」
 と言われていることで、中学と高校生の間では、年齢的なものは、法律ではないだろう。
 とはいっても、
「テレビの出演などの¥は、午後八時まで」
 などという法律は、存在しているが、そこで、刑法的なものがかかわってこないのは、児童と未成年と成人との間に、細かい決め事はないということになっていて、それをいかに考えるかということを、考えさせられるというものだ。
作品名:破滅に導くサイボーグ 作家名:森本晃次