破滅に導くサイボーグ
「満月を見ると、オオカミに変身してしまう」
という、
「オオカミ男」
の話があるが、映像化しようとすると、人間がいきなり苦しみ始めて、顔をしかめながら、重低音で、いかにも苦しんでいるような声で震えているのだった。
震えが止まらないという状態で下を向いていたかと思うと、毛むくじゃらの顔をこちらに向けて、それまでにない顔になったかと思うと、いきなりの危機を感じさせられ、身の危険に打ち震えたかと思うと、
「その場から、いかにして逃げるか?」
ということだけを考えるようになる。
本当はその場に音楽など流れているわけはないのだが、何かが迫ってくる時のようなBGMが流れてきているような予感がする。それを感じると、今度は、虫の声が聞こえてくる。
その声は、まるで、
「今まで暑かった時期が、終わりを告げるかのような、秋の虫の声で、静かな声ではなく、比較的、騒々しさがあるのだ。
だから、湿気を感じさせる雰囲気は、まだまだ暑さが残っていることを感じさせ、それとともに湿気があることで、必要以上の汗を掻いているという感覚を覚えるのであった。
さらに、オオカミ男の出編は、夜に限られている。
それが宵の口なのか、深夜なのかは、はっきりとしない。どちらにしても、人通りはないのだった。
そこが日本ではないということは、最初は分からなかった。なぜなら、
「外国になど行ったこともないので、何か変だと思いながらも、そこが、どこなのか、模索をしているということで、夜だということが分かるだけで、それが、夜のどのあたりなのかということまでは、想像がつかないのであった。
「虫の鳴き声は、本来の季節よりも、少し早い気がする」
と思えていた。
ただ、セミの声だけは、梅雨が終わり、夏が来たという時期に、恐ろしいほど、耳をついてくる。
「これほど耳障りな声というのはないものだ」
と感じさせる。
セミの声というのが、そのまま夏の日差しであったり、鬱陶しさすべてを表しているかのように思えるのだ。
暑さだけではなく、湿気も含んでいる。ただの暑さだけでは、ここまでセミの声を鬱陶しく感じさせるものはないということであろう。
セミの声は、夏の間、鳴き続ける。
しかし、最初に鳴いていたあの声が、夏が終わる頃に聞こえているセミとは、違うセミであるということを誰が感じているだろう。
「セミというのは、寿命が短く、その声が高いのは、
「地上にいられる数週間だけだ」
ということである。
一か月ともたないセミが、夏に入ってから鳴いていたセミの声であるわけはない。それを思うと、
「最初のセミがどうなったのか?」
と考えてしまうこともたまにあったりした。
当時、クーラーなどというものがあるわけもなく、それでも、皆暑さに負けずに生きていた。
それは、田舎でも都会でも変わることはない。ただ、なんとなくであるが、
「田舎の方が、心なしか涼しいのではないか?」
と感じさせるのであった。
そんな夏の夜に、
「オオカミ男が出現する」
ということを聞いたこともなければ、想像したこともない。
それは、
「オオカミ男に、セミの声はふさわしくない」
と感じたからであろうか。
ただ、この当時の村と呼ばれる比較的田舎、いわゆる、
「農村」
と言われているところでは、
「オオカミ男の伝説」
というのは、かなり変わったものだったといえるだろう。
ただ、想像できないことではないともいえることで、
「話が、交錯している」
といってもいいかも知れない。
というのも、
「オオカミ男という話に、吸血鬼ドラキュラの話が混ざってしまっていたのだ」
ということである。
「吸血鬼ドラキュラ」
という話は、あれも確か、夜に行動することから、
「吸血鬼というと、コウモリというものを想像させる」
ということであった。
コウモリというのは、
「基本的に夜行性で、人がいないところを徘徊している」
というイメージがある。
それは、当たり前のことで、
コウモリというものの童話に、
「卑怯なコウモリ」
という話があり、
「鳥と獣が戦をしているところに、コウモリが出くわした」
というところから始まる話で、
「鳥に合えば、自分を鳥だといい、獣に合えば、自分を獣だといって、難を逃れてきたのだ」
ということであるが、いずれ、戦が終わって、平和になってくると、鳥と獣の会話の中から、
「コウモリの話題」
というのが出てきて、
「コウモリは卑怯な奴だ」
ということになり、獣からも鳥からも、相手にされなくなり、結果、暗くて湿気の多い、洞窟の中で人知れず暮らすようになった。
ということを言われている、
だから、夜の湿気のあるところに現れて、そこで、女の生き血をすすり、血を据えあれた女が、今度は、自分も吸血鬼として生まれ変わるという話だったのだ。
湿気が多いのだから、吸血鬼が出るのは、夏ということになるのではないだろうか?
しかし、オオカミ男は、夏に現れるというわけではないので、
「うまく重ならないように、現れる」
ということであろう。
しかし、考え方によると、少し違っているのであって、
「何も季節が違っている必要はない」
ということだ。
そもそも、オオカミ男と、ドラキュラというのは、
「同じ時に出てきてはいけない」
という発想がある。
「別の町での伝説ではないか?」
と考えれば、それもそうなんだが、
「オオカミ男にも、ドラキュラにも、それぞれ同じタイミングで出てくることはない」
と感じさせる何かがあるのだった。
というのは、
「オオカミ男というのは、満月の夜にしか現れない」
と言われている。
明るい月の光の中で、オオカミ男は現れて、光を浴びたことで、
「オオカミに変身する」
ということが、目の当たりに見せられるのだ。
だが、ドラキュラの場合は、そもそも、黒い外套を着ていて、いかにも目立たない様子。それこそが、
「コウモリ」
というものを彷彿させるということになるのだろう。
そもそも、コウモリというのは、真っ黒な姿でたたずんでいて、人の前に姿を現すことがほとんどない。
しかし、自分たちが生息できる場所が限られていて、そこに、大量のコウモリがいるのだから、その多さというのは、
「集団で行動している」
としてしか、認識できない。
しかし、本来、ドラキュラというのは、伯爵一人である。大量のコウモリとは、イメージが違っている、
しかし、コウモリが集団でいるのは、他の動物のように、
「助け合って生きているからだ」
ということからであろうか?
単純に、
「限りのある場所で、たくさんが生息しなければいけない」
ということなだけで、彼らは、まったく干渉しあっているわけではなく、そもそも、
「助け合う」
などということとは、無縁なのではないだろうか?
何しろ、
「暗い洞窟の中で、しかも、湿気を必要とする」
という形を想像する時、思い浮かぶものがあるのではないだろうか?
そう、思い浮かぶもの、それは、
「鍾乳洞のようなところ」
といえるだろう。
鍾乳洞というと、それほど、どこにでもあるものではない。
作品名:破滅に導くサイボーグ 作家名:森本晃次